青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

090-1060-9764

設計の世界—–危機感

平成12年に晴れて一級建築士となり事務所の看板も名刺もすべて直した。試験に受かったからと言っても特に仕事の腕が上がる訳でもない。知識が勉強した分増えたが現場で対応するのとは少し違う。あえて言えば名刺の肩書きが変わって施主や業者から見る目が違ってきたかも知れない。

年表などを見ると平成12年頃を境に設計の手法が少し変わっている。それまでは工法や材料にあまり関心がなく現場が取れれば何でも良しとする傾向が強かった。親戚や友人などから貰うのがほとんどだったからだ。ややもするとデザインから予算までお任せと言う施主ばかりだった。

安易な設計と甘い現場管理で平凡な家作りが続いていた。もちろん今のようにいつも仕事がある訳でもなく危機感は感じていた。試験に挑戦したのもその裏返しだった。危機感が強ければ強いほど勉強は身に入る。IMG_7473

取得が直接の原因だったか危機感が最初か思い出せないが両方だったと思う。基本的に設計のポリシーとか仕事に対する執念のようなものが欠けていた。それほど強く意識はしなくても漠然とこのままではダメだと思っていた。

平成6年に親戚の山から出して建てたことがあった。不良在庫と業界の不慣れでコリゴリと忘れていた国産材の家作りを思い出した。山の崩壊が始まりかけていた森林組合などから後押しがあった。国産材の家をウリにしようと思い周囲の協力を得て始まった。

普及しつつあるプレカットに安い割りに高品質な外材に押され森林組合などはライバル心をむき出しにした。その協力で山出しをして洋風から和風っぽいデザインでやろうと思いついた。手刻みは当たり前だが見た目だけ変えても大壁のビニールクロスでは差別化できない。もっとも当時は差別化よりも何が良いのか迷っていただけだが。IMG_7458

手刻みの古民家風の家作りを思いついたのは一級建築士になったのがきっかけだったと思う。設計者は優れたデザインとか他人と違うものをと考えるのが普通だ。建材やタイルを貼ったり変わったクロスを貼るのだが他所と大した違いがない。

山出しをして建てると言う発想は普通ではあり得ない。そんな手間をかけずとも材木店があるしプレカットも増え始めていた。山出しと言う前提があって古民家を着想したし、そこが他所と大きな分かれ目だった。そのタイミングで一級建築士だったのだ。

大きな船がゆっくり旋回するように建てる住宅に少しずつ山から出した材木を入れていく。古民家風を取り入れながら新しい住宅を作るつもりで設計をした。もちろんトラブルや苦労は前に書いた通りで資金も含め大いに苦労した。IMG_7467

平成13年頃から100%山出しで建てるようになり漆喰や羽目板などの加工で仕上げた。16年頃から本格的な古民家風や真壁の家が増えていった。当時は自分の読みが当たったかと調子に乗ったところもあった。展示場やトラックの購入など借りれも増えて経営は厳しかった。

キッカケと言うのは色々あるが仕事においては資格は重要な要素になる。他では出来ないことを可能にするのが資格なら他で出来ないことをやるべき義務もまたある。向上心のために資格は大いに助けになる。資格を取っても何も変えないのもあると思うが出来るのにやらないのはもったいない。

17年と二級建築士の期間より一級建築士の方が長くなった。他人の評価を気にして生きるわけではないが一般的には評価される方が多い。私の場合は向上心の触媒のような役割を果たしているように思う。

私は建築関係の学校を卒業していない。だから二級建築士の受験資格は経験7年で受けた。一級建築士も経験2年が必要だった。しかるべき大学出身者は経験なしでいきなり一級建築士を受験できる。(現在は経験が必要)一級建築士になるには11年以上かかる計算になる。IMG_7466

文系の大学に行ったのは高校生の時に数学が不得意だったことによる。教師は合格の可能性から理系でなく文系を勧めた。設計士に漠然と憧れはあったものの安易に妥協してしまった。その時の思いがあった訳ではないが、転職しながら結局は建築関係の会社だった。

設計部門には当然いけないし営業としてアルミサッシを売り歩いた。その時でも販売店廻りよりも設計事務所への売り込みが楽しかった。漠然と自分がなりたかった職業のイメージが目の前にある感じだった。9年勤めて事情があって退職し、次の仕事を設計に定めて資格取得と経験を積むことにした。


設計の世界—–建築士と設計

建築士は試験に受かってから登録して建築士を名乗る。衰えたと思った記憶力も訓練さえすれば元に戻る。いや伸びる事だってあると言うのを今回確信した。宅地建物取引主任者や福祉住環境マネージャーとか間に合った資格は全部取った。

取っても食えないので足の裏の米粒などと言われた建築士だが施主には一定の信頼を与える。仕事を取るためではなく取った仕事を遂行するために必要だった。やはり法規を勉強し申請などに知識はモノを言う。一緒に学校に通ったり前後の取得者が行政にも居るので人脈のようなモノができる。

建築士なのに知らないのかと思われないように勉強もする。間接的な効果も含め私には大きな自信になった。やはり肩書きは他人の目からも自分自身のプライドのためにも大きな価値があるようだ。妙に威張るなんてのは問題だが。100_3777

年々複雑になる法律だが全て理解するのは大変だ。一人で考えても理解できない事を他の建築士から聞くと簡単にわかる。それまで全く自分一人で営業、申請、現場管理をやってきた。しかし法の隙間を狙うような難しい建て方をするようになって疑問点が増えてくる。

行政に聞いたりしてもなかなか理解できない。たまたま瑕疵担保保険の現場検査にきた建築士と知り合いになった。申請を手伝ってもらったりしながらわからなところを聞くようになった。言わば顧問的な立場という感じだ。

本当はそう言う社員がいれば良いのだがそんな余裕がない。申請業務は慣れも必要で行政の指摘ポイントがわかってくる。書式や指摘事項の訂正法など慣れてくるとやりやすくなる。私は丸太の運搬とか製材所行きで忙しく彼のサポートはすごく効率がよかった。100_3772

設計は打ち合わせから始まって材料などの知識を駆使してプランをしていく。法的なものはわからないと無難なものになるので法の隙間のような部分を調べたりする。軒裏の仕上げなどは建築基準法では板張りも可能だが行政は防火の観点からやめるよう指摘を受ける。

家の設計は法的な部分の解決が大事でデザインなどは問題点が少ない。施主には重要でなくとも現場は別な観点から問題になる。木の家では防火上の制限が時々出てくる。申請で指摘を受けないよう十分に検討しないといけない。

最近相談者が増えているが行政に申請する建築士には向いている。施主が最初にどのような建物が可能か知らないとイメージがわかない。土地により建てる事自体が難しかったり面積により建てられる大きさが決まる。IMG_7491

どちらかと言うと住宅会社や工務店は現場取得が目的だ。業者を決める前の大雑把な相談は営業という観点しかないので向いていない。いかにして現場を決めるかが一番の目的なので仕方がない。設計事務所は相談には一番向いている。

一般的に設計事務所は敷居が高いと思われている。最近はそうでもないと思うが住宅以外が専門だとまともに相手をしてもらえない。相談する前に自分の好みや目的に合わせ設計事務所を選ぶ法が良いかもしれない。

当社は国産材を使った真壁造りで漆喰と羽目板などの仕上げを得意とする。流行りのプレカットやビニールクロス張りはやらない。これは会社のポリシーなので例外はない。なんでもできると言うのは施主には便利に思えるが得意分野がないとも言える。

法的な事は良いとして設計デザインなどに得意不得意がないのはおかしい。得意な分野は他社より優れている部分と言えるから何でもとは全て平凡という意味だ。かなり断定的な言い方だが個性的なウリを持つ事こそ設計事務所だと思う。IMG_7498


設計の世界—–一級建築士

設計事務所は県に登録するが管理する建築士を置かないとならない。管理建築士は専属で専任なのでだいたいが主掌者がなる。登録期間は5年、更新する。

最初に取得したのは2級建築士、サラーリマン時代に取った。独立した時は2級建築設計事務所だった。その後仕事も忙しく1級建築士を受けたのは12年経って平成12年だった。日建学院に通うのが普通で11年から通う。次の年の7月学科、10月が製図、結果が12月に発表だった。

ほぼ一年がかりで取った。1級建築士の有無は仕事でも行政への申請でも影響がある。他の建築士ができない仕事があってこれさえあればと言う資格である。巷での建設関連の資格では一番知名度があり施主に対して説得力もある。100_1298

独立すると仕事を続けること自体が難しい。明日をも知れぬ状態で試験勉強などできる筈がない。また簡単とはいかないから相当時間をかける。記憶力が衰え始めて時間も取れない。学校に通うだけでも大変だった。

本当のことを言うと仕事の予定が切れたのと12年経って振り返る余裕が出てきた。取らなければと言うやる気が出た。かなりの期間仕事を放り投げるから覚悟は要る。

学校の同期は落第組も含めざっと100人ほど。年齢は熱心に通った中では上の方だった。週に3回で毎回試験をして順位を発表する。2月ごろまでビリから数えたほうが早かった。毎年30人から40人くらい合格だから危ない成績だった。DSC_2585

3月頃になると脱落者が出て60人くらいしか残っていない。毎日発表の成績リストはまだ下から数えた方が早い。自分でも焦りが出て仕事も放り投げて勉強時間を増やした。事務所は弁当持参で勉強部屋と化した。

4月からは毎日10時間くらいは勉強した。家でもテレビは見ないし高校生だった子供たちと勉強した。その甲斐あってぐんぐん成績が上がり直前の6月にはベストテンに入る。後にも先にも熱を入れたのはあの時が一番だった。

その影響は娘が建築士をとる時に無言の教えになった。とにかく学科試験は38人受かってなんとかセーフだった。次は製図試験だが私は手書きの図面を描いていたから若いパソコン世代より有利だった。当時主流はCADになっていたが私はかなり遅かったので手書きが多かった。DSC_2555

製図試験は昼から夕方まで書くのだがプランを考える時間と製図時間がある。プランは予め課題はわかっているのですぐだが手書き製図の早さで差がつく。若手はほとんど手書きをしたことがないので遅い。

当時受験する若手はゼネコンの現地出張組が多かった。彼らは若く優秀で学科ではいつも上位独占だった。大学出の彼らはついこないだ迄学生だったので学科は強かった。地元組は働きながらの苦学生のようなもので成績は上がらない。

ゼネコン組は大学でも現場でもパソコンCADなので手書きの経験がない。製図試験はプランより描くスピードがモノを言うのでいつも間に合わない。学校では鉛筆で手を真っ黒にしながら苦闘していた。

建築士の難しさは学科と製図の別な才能を必要とするからだ。学科は優秀でも手書きの製図がお粗末なのはいっぱいいた。私のように経験があればスピードは早いしプランも慣れている。学科に受かっても製図試験を2回落ちるとまた振り出しだ。

苦手な学科を通って私は余裕で製図試験を受けた。そして12月の23日雪が舞い散る夕方5時頃学校からの電話で合格を知った。クリスマスケーキがそのまま私の合格祝いになった。その時48歳、県内で最年長合格者だった。DSC_2534


設計の世界—–二級建築士

私は設計士の仕事に魅力を感じても経験はおろか図面も描けない。そこでリフォームとインテリアの新しい形態の店のニュースを新聞で読んだ。親会社は仕事で通っていた会社で地元の有力建材店。

ツテもあって早速入社の希望を伝える。系列会社からの寄せ集めでスタートしていた当時の責任者には断わられた。しつこく交渉したら何とか潜り込むことに成功した。そしてリフォーム担当になり営業としてスタートした。

まず二級建築士の資格取得目指し前の会社に頼み込んで経歴を保証してもらった。これはすぐ取れてスタートしたばかりのインテリアコーディネーターの資格も取得した。東京まで受験に行ったが始まったばかりの試験で県内でも2番目のコーディネーターになった。

会社が大きいのと親会社の紹介でリフォームと新築工事がかなりあった。あったが金額が小さいのと目標金額が大きく会議では毎回上司に怒られた。3年半ほどで100件以上の物件を担当し現場管理は相当な経験を積んだ。IMG_5425②③

こちらから採用を働きかけ自分の都合で辞めるのは正直忸怩たる思いがあった。採用してくれた責任者の方には今でも頭が上がらない。いずれ独立を念頭に働いて経験まで積ませてもらったので感謝の一言である。

かくて昭和63年3月建築設計事務所を開設した。事務所は自宅、車は自家乗用車でたった一人のスタートである。サラリーマン生活が身に染み付いて朝になると出かけないと気が済まない。出ても行くところもないし電話もない。

電話は当時出始めたショルダーホンから今のような携帯電話が発売になり購入した。大枚20万円くらい払って持ち運べる本物の携帯を持ち歩いて営業した。電波塔が少なく感度も悪いので使える場所が限られる。挙句に電池の保ちが2時間ほどの待ち受けで無くなる。CIMG0220

実用にはほど遠かったがインパクトは強烈で携帯電話を見て皆驚いた。何たって電話ができるのである。今では当たり前だが当時の衝撃はすごかった。私は携帯を持ち歩くことでかなり有名になった。

当時は事務所も要らず安く上がると思い込んでいた。実際は通話料は高いし不通の範囲が広く予備の電池持参でも半日保たない。まったく役に立たないことがわかり次々と出た新しい携帯に乗り換えた。

華々しい携帯スタートの割には次第に保守的になり今では通話のみのガラホしか持っていない。スマートフォンはとうとう乗り遅れて家内と同じ機種で使い方を教えあう体たらくだ。

電話を見せながら同級生や親戚を廻って小さな仕事を取って歩いた。やはりこう言う時は昔の仲間が一番で懐かしさもあって話は聞いてくれる。手書きの図面を描きセッセと営業をして色々な会合や組織に入会した。CIMG0262

子供も小学生になってPTAの役員とか同窓会の幹事とか消防団にまで入団した。飲めない酒にも付き合って少しずつ人脈を増やした。親戚も次々と仕事をくれる。血は何よりも濃いとはこのことだ。

3年ほどして工事をしてくれた同級生の家の一階を借りることになった。念願の事務所開設である。この事務所には2年程しかいなくて家主の都合で出る時に上にある土地を買う縁になった。

ここでは机や棚を自分で作り中古の椅子を買った。この時初めてパソコンを買った。最初はNECのDOS.Vで文字を打ち込む手間暇のかかるタイプだった。1年もしないうちにWINDOWS3.1が発売になり買い替えた。

また1年もしないうちに業者の紹介でMacを知りその面白さにハマって買うことになった。当時Macはパソコン界のポルシェと言われNECがディスプレー込みで35万の時にに90万もした。平成3年頃でQuadr700以来14台のMacを買ってMac党になってしまった。CIMG0274

CADを使い始めたのもMacの時からでMinCadが最初でバージョンアップを重ねてVectorWorksになった。劇的に安くなったパソコンなのにCADソフトだけは値上がりを続けて本体のパソコンを買えるほどになった。

何度も失敗やトラブルを経験してトラックも買いパソコンも揃えた。仕事に夢中であっと言う間に10年が過ぎた。借り入れもなく売り上げも伸びて絶好調で一番楽しかった。その後は事務所を建て一級建築士の挑戦に繋がる。


設計の世界—–老後住宅

今の中高年はいつの時代も人口ピラミッドの肥満に貢献してきた。団塊の世代を中心に上下10歳前後が含まれる。平均余命も伸びて定年退職後30年は生きる。現役で働いた期間は私で38年位のものだ。退職後が思ったより長い。

年金生活で一番金がかかりそうなのは住まいだろう。40歳前後に郊外に新築して子育て終了で夫婦二人になる。定年近くなると関心は子供から自分たちの老後の家だ。

当時の作り方は部屋数優先で子供部屋が多く居間も狭い。バリアフリーなどない時代だったので階段は急で廊下も狭い。二階の寝室ではとても老後向きとは言えない。DSC_2539

水回りや外壁の傷みを補修するのがきっかけになりどんどん夢は膨らむ。ちょうど退職金もあることで話が大きくなっていく。誰でも考えるコースで建て替えとリフォームの二刀流で計画が進んで行く。

建て替えとリフォームでは金額差が意外と違わない。とは言っても土地代の差は出る。リフォームは断熱が重要だから外壁とサッシの交換になる。内装はもちろんやり変えだが大概居間を大きくする。限りなく新築に近いリフォームと言うことだ。

勤め先によるが用意できる資金は3000万円くらいのものだろう。土地購入の上新築だと少し足りない。リフォームだと土地代がないので余裕がある。土地価格も下がる時代だがそれなりのところはまだ高い。000_0557

建て替え組には便利なところに老後は住みたいと言う大きな希望がある。夫婦から一人になる可能性を考えれば離れた郊外より中心街に近い方が良い。友人付き合いにしても病院通いまで何かと便利だ。

子世代に既存の家を渡して自分たちは新築も考えられる。しかし学校の問題や通勤で街を好む傾向が強い。甘やかされて育ったので親よりも新築志向があって贅沢なのが多い。若い世代が中古住宅を買ってリフォームは思ったより少ない。

既存を売却して資金を得る方法がある。しかし古い家のまま売却は無理で解体するのが普通だ。中古住宅として価値があるのは築15年くらいまでだ。土地代にもよるが解体費も100万円以上かかるのであまり残らない。DSC_2566

もし土地が広いと二世帯住宅も別棟も可能だ。土地購入でも親子でローンを組めば可能だ。二世帯が可能ならば税法上からもメリットがある。別棟ならもっと理想的かもしれない。

どのケースでも土地の有無と資金次第なので余裕があれば新築になる。数から言うと郊外の小さな家に住む方が圧倒的に多い。売却も子世代同居も難しいと言うのが普通だ。こういう方はリフォームになる例が多い。

家を新築しても家族構成や環境の変化で直したりしないとならない。子供たちも家を出て独立するし結婚と親の退職が同じ頃になる。家族ごとにいろいろな事情で新築やリフォームの要因が決まってくる。

二世帯住宅も2棟やったがタイミングが難しい。親世帯が退職を機に未婚の子と親子ローンで建てた。3年後子供は別なところに新築して大きな家は無駄になった。もう一つは子が建てて親を呼ぶのだが2年経っても同居していない。二世帯住宅は難しい問題があって別棟の方がいい場合もある。私も息子も別棟で建てているのでその良さがよくわかる。
DSC_2596