青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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設計の世界—-作業場

平成24年春、新装なった作業場で最初の現場がスタートした。息子を中心に宮大工が3人ほど集まった。すぐ住宅を刻み上棟した。続けて大掛かりなリフォームをやりまた住宅を建てた。ほとんど息子が墨付けをして刻んだ。

今まで修行の身だった息子は大工を使う経験がなかった。33歳の息子は現場では一番若い。年上のベテランを使いこなすには経験不足だった。他の大工に任せれば良いのに自分でやってしまっていつも忙しがった。結局宮大工たちは一現場終わると皆いなくなった。

現場ごとに大工集めをして進めたが息子はプレッシャーで現場に行きたがらなくなった。苦労しながら次の年まで寄せ集めで乗り切った。その時の現場はクレームが発生しトラブルも多かった。DSC_0738

25年春になって以前一緒に働いたことのあるベテラン大工が息子の誘いに来てくれることになった。彼はまだ付き合いのない頃私の見学会に客のフリをして見に来た。私の建て方や仕事を気に入っていたようだった。それもあって息子の誘いにすぐ乗って来てくれた。息子は彼の仕事を少し手伝ったことがあった。

今は親子ほど違う息子とコンビで働いている。プレカットばかりの家つくりに不満のあった彼は他の大工が面倒がる手刻みを喜んでやる。水を得た魚とはこのことだった。

今年に入って職人不足が目に付き始めた。特に大工はリフォームが増えてベテランが持て囃される。電ドルと丸ノコでは在来工法のリフォームは得意ではないからだ。プレカットの新築に特化した仕事しかできない大工が登場した。大工とは名ばかりの現場職人の登場だ。DSC_0740

いよいよ手刻みや真壁のできない大工の登場である。電動の機械の操作は目にも入らぬほどのスピードだ。あっという間に現場を終わらせ5時過ぎには後片付けをして帰る。無駄がなく現場も綺麗で汗の臭いもなく颯爽としている。

住宅会社は組み立てと仕上げに分かれているところもある。専門化してスピードを上げ早く綺麗に現場を終わらせる。修行の経験もなく見よう見まねですぐ一人前だ。息子も応援にいくこともあるがもちろん手間賃は一緒だ。

家つくりに必要な技術と材料は確実に変わっていく。プレカットと泥臭くない大工たちの建材だらけの家が増える。修行とか山から出すとか何の価値もないと思う建主も増える。知らないだけだと思うが知っていても価値を認めるかどうか。DSC_0750

木にこだわった家を建ててきて手刻みとか国産材とかあまりピンとこない方が増えている。仕上がった板張りが価値であって柱の真壁には関心がない。工法とか無垢材よりは仕上げの自然素材に興味を示す。この程度の家だったらプレカットに板でも貼れば十分だろう。

デザイン優先の家に住んでいたから木の家の凄さとか大工たちの長持ち技術の価値がよくわかる。外材は腐りやすくシロアリにも弱いので薬漬けだ。それにビニビールクロスでは病気にならない方が不思議だ。建材メーカーの本質は利益を上げることにあるので禁止されても代わりをすぐ見つける。

作業効率の良さをウリに未熟な大工たちを増やしていく。高気密高断熱とか言いながらメーカーの尻馬に乗って売りつける住宅会社。福島の例を見るまでもなくメーカーとか行政は良心よりも仕事優先で責任は取らずに言い逃れる。自分を守るのは自分自身しかないのに皆で渡れば怖くないと危ない家に住み続ける。

そう言うことに警鐘を鳴らすのは自分の仕事ではない。しかし自分で守りたいと思うのがいてそう言う家を建てたい方がいる限り続けたい。素朴にご先祖の木で建てたいとか杉の臭いがする家に住みたいとかそんなきっかけで良いと思う。自分の好きな家を建てようと思った時に無垢材の手刻みの家が選べないのは大変不幸だと思う。DSC_0683


設計の世界—-展示場

平成22年の春展示場の見学会が行われた。その時の来場者数の正確な記録がない。2月20日と21日に雪の中を50組くらいだった。自信と不安の混じった中で大勢の相手で疲れたとある。その時に新しい客は見つからなかったが予定者がいて説明をした記憶がある。

こちらの勝手な期待とは裏腹にその後の展示場への来場者数はイベントを除くと年に5,6人くらいだった。また実際に見た方もそれほど参考になったような感じがしなかった。やはり大きすぎて実際に建てるイメージが湧かなかったかと思った。フーンとさして興味のなさそうなのが多かった。

そんな苦労とは別に宣伝効果もあったのか別な現場の見学会は盛況だった。展示場の広告効果は思いがけない形で影響が出てきた。その年は現場が多くて見学会を予定したところが多かった。どこも盛況で数が多くしかも有望な来客が増えてきた。100_1935

調子に乗った私は大工の組を増やして現場を並行して進めた。打ち合わせもあって忙しく現場へ行く回数が減ってきた。材料の無駄や破損、発注ミスなどが重なる。せっかく現場の数が増えて工事高も増えたのに粗利が少ない。

儲からない仕事はしない方が良い。後でわかったが付き合い始めの大工たちが管理の甘さを良いことに手抜きをするようになった。自分ではこだわって設計した部分を指示の甘さと勝手な変更で台無しになってしまった。

施主にはわからなかったことだが意図したこちらはがっかりだった。あっちもこっちも現場だらけでしかも次もあるので忙しかった。大工任せはご法度なのに忙しいとそうもいかない。このことは後で雨漏りというクレームでしっかり授業料を払うことになる。100_1945

現場は見に行く回数と出来上がりの良さは比例する。管理は現場へ行くことでしかできない。その時学んだのは設計よりも現場管理が重要だと言うことだった。逆に見栄えのために凝ったりしても5年もすると平凡に見えることだった。安易な設計よりしっかり現場管理をすることを学んだ。

展示場開設後2年ほどして古民家そのものにこだわる客が出てきた。前に一度瓦の乗った古民家風を建てたがその後しばらくなかった。瓦葺きの大きな家で玄関はドアとか中半端なところがあった。見学会に本格的な古民家風を志向する方が出てきた。

私的には古民家風をやりたいと思っても数が少ないと勝手に思っていた。マニアの世界に思えたからだ。展示場もあって資金繰りも増えて大変だったので現場数を確保することを優先した。100_2010

忘れていた訳ではないが曲がりや大黒柱の在庫も増えて渡りに船という感じだった。二組いた大工たちもいろいろあって一組減ってまた大工探しが始まった。本格的な瓦葺きの和風住宅が二つあっていつもの大工の他にもう一組探した。帰ってきた息子をそちらにつけて刻みをやることになった。

帰ってきたばかりの息子の腕は私には未知数だった。それもあってベテラン大工のところへ息子を派遣し向こうで刻みを開始した。作業場も借りて順調に見えたが大工の腕があまりにひどい。一番アテになるのが若い息子という塩梅だった。ベテラン大工の筈が全部息子の指示で動くと言う有様だった。

何とか息子が毎日通って刻みをして上棟した。休みの多さと仕事の遅さは歴然としていた。怒った私は別の現場の大工を呼び寄せ交代させた。こうやって途中で大工が変わると言う失態をやってしまった。唯一の収穫は息子が刻みも加工もできると言うのがわかったことだった。

完成後自前の作業場を作り息子が棟梁として一人立ちすることになった。秋田で修行した息子は大工仲間がいないので相棒を探さないとならない。たまたま宮大工の会社が廃業し大工が余っていると聞いてスカウトした。息子も宮大工上がりなのでうまくいくと思った。100_1976


設計の世界—-山出し

地元材だけで家を建てるには必ずしも丸太から買わなくてもできる。材木店とか製材所などで乾燥した県産材をまだ買えた。それどころかそれを使ったプレカットもやっていた。

なぜ山出しにこだわるかと言えば設計の自由度が違うからだ。プレカットは規格型の住宅会社のような建物に向いている。特寸の太い梁とか大黒柱を使うような家は得意ではない。わざわざ大工を使って手刻みするから高くなる。

プレカットが安いと言っても自由な設計が不可能なら意味がない。設計のポリシーを曲げてまでプレカットは使わない。施主のために本当にこだわった良い家を作るには山出ししかない。

長く続けることでコスト回収も軌道に乗りノウハウも出来てくる。国産材プレカットに頼らなくとも十分にコストで対抗できる。苦労して軌道に乗る頃には製材所は潰れ加工屋が廃業伐採は森林組合だけと山を取り巻く環境はすっかり変わってしまった。100_1562

コストが下がってさらに下げるには数の確保だった。住宅会社のような営業マンもいないし広告費だって限られている。セッセと広告はしたのだが思うような数も集まらないし実物の見学を希望される方が増えた。

引き渡し後の住宅は写真で見て頂くよりないが何と言っても実物の迫力には敵わない。事務所の前のトンネル工事が終了し貸していた土地が返却される。一気に広大な駐車場ができて何かに使えないだろうかと思案していた。

平成21年になって国産材普及のためにモデル住宅の建設の補助金事業が始まった。地域材を使った展示住宅を建てると国の補助金がもらえると言うものだった。自己資金で展示場を建てることも考えていたので否も応もなく選定事業者の県に応募した。33

書類と図面を揃えて建築住宅課に申し込み15社が選ばれた。他の事業者は展示住宅と言うより県産材を使った建売の認識が強く展示期間の3年を経過後すぐ売却している。もちろん当社は主旨の通り今に至るまで展示場になっている。

当初より自己資金で考えていたので補助金をもらえるのは助かった。それでも補助金をアテにして当初計画より仕様を上げたので金額が膨らんだ。結局自己資金だけとそう違わない借り入れができてしまった。

夢にまで見た展示場宅の建設が秋から始まった。大黒柱はケヤキの40センチ角曲がり梁はサイカチ、ケヤキ、赤松を用意した。フローリングも天井板も板から加工し塗装は油を自分で塗った。長期優良住宅の仕様が義務付けられていたので断熱や耐震も最新の仕様だ。

当時長期優良住宅は仕様としては最新最高のレベルだった。それをクリアしながら広い空間と曲がり大黒のある古民家風の住宅を目指した。内部仕切りも建具で外せるようにしてミニコンサートやギャラリーとして使えるように考えた。30

私のイメージは子供の頃見た藁葺き屋根の大きな家での宴会だった。広い土間から田の字型の座敷を建具を外して大勢集まって飲み食いをした。そんな古民家のホールのような使い方のできる家は少なくなった。構造的にも耐震性の厳しい基準をクリアするため見えないところに補強を随分入れた。

最近ワンルーム型式の使い方が増えて1階は一つの空間にする方がいる。そうしたイメージの中には家の中でそれぞれ自由な暮らしを考えている。完全に仕切った個室ではなく緩やかな仕切りで気配がわかるようにだと思う。

展示場は最大限な空間の可能性を見せようと思った。実際に住む機能は省いてもどれだけ大きな空間を作れるかだった。建具を外すとすべてワンルームになるホールのような家だった。子供の頃見た建具を外した大宴会の古民家だった。

昔の家は寒くて耐震性が劣ると思われている。そのイメージを覆すような耐震強度のある大空間の家が出来上がった。それまでの個室優先の家つくりの否定から始まった。高性能断熱材の進歩がそれを可能にした。34


設計の世界—–初期の設計

独立して最初の仕事は紹介された女性の一人住まいの家だった。平成2年3月22日の確認申請の控えが残っている。私が40歳施主43歳…..独立2年後まだ若かった。

施主は自営業者でいわゆるママさん。夜遊びも酒も飲まない私には一番縁が遠そうな施主だった。とにかく夢中で取り組み建てた。以来25年40棟くらいは建てた。サラリーマン時代も10棟以上関わった。自分で設計した訳でないから関わっただ。

住宅会社の設計部に所属していたらこんなものでなかったかもしれない。しかし施主と会って設計し管理したと言う意味では一年に2,3棟くらいしかできない。誰かが間取りを決め申請しただけならもっとできるだろうけど。142

それで第一号の家だが外材で大工の手刻みで建てた。当時は国産材の流通が少なく外材が主流だった。今と違ってこだわりもなく手に入るもので建てている。多分こだわればまだ国産材は豊富にあった筈だから私にこだわりがなかっただけだった。

総二階で一階が駐車場と二階が喫茶店と居間になっている。工法も材料も何のこだわりもない平凡なつくりだった。当時はその程度のレベルだったと言うことだ。事務所を建てる平成6年頃までとても設計者と呼べるレベルでなかった。

夢中で仕事をしながらその中で経験を積み知識を蓄える。本当に設計者らしくなったのは山から木を出して建て始めた頃だった。面白さに目覚めて山を見て歩いた頃から製材所が廃業し丸太価格が低迷し始めた。122

私が使う丸太の量は知れている。大型物件が減って苦境にあった山関係の職人に歓迎されたのは幸運だった。最盛期であれば相手にもされないことも何でも可能になった。立木2,3本でも伐採搬出してもらえた。

太くて目の綺麗な曲がりなども手に入るようになると現場で使いたくなる。乾燥の何たるかも知らない私は未乾燥でもどんどん使った。赤松の大梁が割れて大騒ぎになったり隙間ができてアフターで苦労した。

材料の確保もさることながら大工のレベルが問題だった。こちらの意図する工法がかっての全盛期を経験した大工ですらやれなくなっていた。プレカットとほとんど同じ安易な刻みしかできなかった。97

作業場には機械もなく動かす設備もない。こうしてプレカット業者は簡単に大工たちの作業場を変えていった。逆に私は本当の大工探しに気に入った家を見て歩くようになった。こだわった家に住んでいる方は見知らぬ私にも相手をしてくれるのがありがたかった。

まず取引業者の自宅から始まり次々と地元材100%の家つくりがスタートしていった。丸太から製材すると必要な材木が余ってくる。材木店から買うと必要本数で済むが製材は多めに挽く。余りを預けたり倉庫をを借りたりトラックも用意する。

こうなると設計事務所と言うより工務店に近くなる。自宅の脇に倉庫を建て乾燥のために材木を動かす。借りていた倉庫も在庫で満杯になりとうとう息子が帰ってきて本格的な作業場を作った。File-043

こうやって振り返ってみるとかなり無茶をしたなと思う。丸太から出して家を建てるとコストが上がってしまう。材料コストは下がるが運賃とか倉庫代とか間接経費が膨大にかかる。在庫の山は同時に借り入れの金額が増えることを意味する。

上棟式で見ている材木は1年以上も前に山から出して支払いも済んでいる。それを回収するのにかなり時間がかかるのがわかっていなかった。増える丸太代は借り入れで賄い後で回収できる筈だった。

そもそも丸太から製材すると角材の他に板材とか小割材と呼ばれる細かい材が出てくる。これを全て無駄なく使ってこそコストが下がる。ところが乾燥時に曲がり割れたり雨ざらしで腐ったりロスが出る。そのロスを計算していなかったのだ。

地元材で建てると良い目とか無節にこだわる。そういう材を挽くために非効率なことをしてしまう。俗に言う歩留まりが落ちる訳で太くて高い丸太を多めに買ってしまう。これではコストが下がらない。こうして高い勉強代を払うことになる。


設計の世界—-設計者

堅苦しいことばかり書いてぶっちゃけの話が少ない。テレビでも”ぶっちゃけ寺”なんてお坊さんタレントが増えそうな番組がある。本当は楽しみながら家作りの参考にして頂けばと思っていた。これまで設計した中には他人には言えないような失敗もたくさんある。

どうして設計屋になったか前回に書いた。自分以外の設計屋さんに自宅を作ってもらって面白さに目覚めたわけだ。営業などやるより設計屋が面白そうだ…..これだ。住んでから面白さが分かったこともある。

設計者は基本的に自分の感性の及ぶ範囲でしか作れない。施主の希望が何であれ基本的には自分が納得するモノを作る。良いと思わないモノや嫌いなモノはやりたくない、当然である。しかし営業マンは自分で商品を選べない。会社から指示されたモノを売るだけである。DSC_1801

ところが設計者は違う。例外はあるとしても自分の好みに合う仕事をやれる。必ずしも思い通りでなくとも得意で好きなことをやれる。ここがポイントで設計者に仕事を依頼しようとするなら大事なことである。

大工工務店や住宅会社は尋常でないこだわりを持つとか偏屈なところは少ない。基本的にはなんでもOK、多少の食い違いがあっても施主の言う通りに作る。設計者はそうはいかない。自分の価値観を押し付ける、あー言えばこう言う、他人の悪口は止まらない。設計者に依頼する場合はこうでなければとか他所ではこうだとかは禁句になる。

設計者の持ち味を活かせるように持っていかないとならない。とにかく丹念に調べ探す努力をするしかない。こだわりも何もない方は住宅会社とか工務店に行ったほうが良い。DSC_2795

得意分野とか自分の持ち味を発揮できる仕事は誰でもやりたい。嫌いなことや自信がないことはやりたくない。逆に言うとこだわりや得意分野のない設計者は設計者でない。代理申請だけの代行業だと割り切っているのもいる。それも一つの仕事ではあるが。

一つのことを掘り下げてしつこく調べてくどくなるのは止むを得ない。そうやって仕事を覚え今までやってきたのである。それまでの経験と知識を活かせないのであれば意味がない。設計者とはそう言う人たちである。

わかって頼むのであればもしかすれば依頼者が思いもかけなかったすごいモノができるかもしれない。素人である依頼者に代わり専門知識を絞り出し頭を悩ませて考えてくれる。四六時中考え続け浮かんだアイディアを図面化して期待に応えようと頑張る。DSC_2799

依頼者が自分の好みに合う設計者とめぐり合うことは大変ラッキーなことだ。自分のして欲しい事を代わりに考え具体化してくれる。まだ見た事がないモノに心配な方もいるでしょう。ここはやはり自分と好みが一致することで納得するしかない。自分の想像を超えたモノを見ることができると信じるしかない。

施主に喜んでもらうという簡単なことが中々難しい。設計者も自己満足や次の仕事に向けてアピールできるモノを欲しい。誰でも欲はあるから時に施主の意向に反することもある。有名な建築家の先生にも自分のPR第一と言うのもいる。

施主が不満を持ったりトラブルとしたらこう言う自己中心的なところだろう。できたモノに対する不満より対応や作品主義的なことだろう。プライドが高く学歴や資格に相当自信を持っているタイプに多い。もしそう言うのに当たったら別なところを探した方が後々後悔しないで済むかもしれない。

神経質で煩そうな設計者だが根は真面目で融通が利かないのがほとんどだ。それぞれ得意な分野を持ちその分野で仕事が来れば最高だと思っている。会って話して現場を見て判断するよりない。少なくとも工務店や住宅会社では望むことができない家作りになる。100_3719