青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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平成12年に晴れて一級建築士となり事務所の看板も名刺もすべて直した。試験に受かったからと言っても特に仕事の腕が上がる訳でもない。知識が勉強した分増えたが現場で対応するのとは少し違う。あえて言えば名刺の肩書きが変わって施主や業者から見る目が違ってきたかも知れない。

年表などを見ると平成12年頃を境に設計の手法が少し変わっている。それまでは工法や材料にあまり関心がなく現場が取れれば何でも良しとする傾向が強かった。親戚や友人などから貰うのがほとんどだったからだ。ややもするとデザインから予算までお任せと言う施主ばかりだった。

安易な設計と甘い現場管理で平凡な家作りが続いていた。もちろん今のようにいつも仕事がある訳でもなく危機感は感じていた。試験に挑戦したのもその裏返しだった。危機感が強ければ強いほど勉強は身に入る。IMG_7473

取得が直接の原因だったか危機感が最初か思い出せないが両方だったと思う。基本的に設計のポリシーとか仕事に対する執念のようなものが欠けていた。それほど強く意識はしなくても漠然とこのままではダメだと思っていた。

平成6年に親戚の山から出して建てたことがあった。不良在庫と業界の不慣れでコリゴリと忘れていた国産材の家作りを思い出した。山の崩壊が始まりかけていた森林組合などから後押しがあった。国産材の家をウリにしようと思い周囲の協力を得て始まった。

普及しつつあるプレカットに安い割りに高品質な外材に押され森林組合などはライバル心をむき出しにした。その協力で山出しをして洋風から和風っぽいデザインでやろうと思いついた。手刻みは当たり前だが見た目だけ変えても大壁のビニールクロスでは差別化できない。もっとも当時は差別化よりも何が良いのか迷っていただけだが。IMG_7458

手刻みの古民家風の家作りを思いついたのは一級建築士になったのがきっかけだったと思う。設計者は優れたデザインとか他人と違うものをと考えるのが普通だ。建材やタイルを貼ったり変わったクロスを貼るのだが他所と大した違いがない。

山出しをして建てると言う発想は普通ではあり得ない。そんな手間をかけずとも材木店があるしプレカットも増え始めていた。山出しと言う前提があって古民家を着想したし、そこが他所と大きな分かれ目だった。そのタイミングで一級建築士だったのだ。

大きな船がゆっくり旋回するように建てる住宅に少しずつ山から出した材木を入れていく。古民家風を取り入れながら新しい住宅を作るつもりで設計をした。もちろんトラブルや苦労は前に書いた通りで資金も含め大いに苦労した。IMG_7467

平成13年頃から100%山出しで建てるようになり漆喰や羽目板などの加工で仕上げた。16年頃から本格的な古民家風や真壁の家が増えていった。当時は自分の読みが当たったかと調子に乗ったところもあった。展示場やトラックの購入など借りれも増えて経営は厳しかった。

キッカケと言うのは色々あるが仕事においては資格は重要な要素になる。他では出来ないことを可能にするのが資格なら他で出来ないことをやるべき義務もまたある。向上心のために資格は大いに助けになる。資格を取っても何も変えないのもあると思うが出来るのにやらないのはもったいない。

17年と二級建築士の期間より一級建築士の方が長くなった。他人の評価を気にして生きるわけではないが一般的には評価される方が多い。私の場合は向上心の触媒のような役割を果たしているように思う。

私は建築関係の学校を卒業していない。だから二級建築士の受験資格は経験7年で受けた。一級建築士も経験2年が必要だった。しかるべき大学出身者は経験なしでいきなり一級建築士を受験できる。(現在は経験が必要)一級建築士になるには11年以上かかる計算になる。IMG_7466

文系の大学に行ったのは高校生の時に数学が不得意だったことによる。教師は合格の可能性から理系でなく文系を勧めた。設計士に漠然と憧れはあったものの安易に妥協してしまった。その時の思いがあった訳ではないが、転職しながら結局は建築関係の会社だった。

設計部門には当然いけないし営業としてアルミサッシを売り歩いた。その時でも販売店廻りよりも設計事務所への売り込みが楽しかった。漠然と自分がなりたかった職業のイメージが目の前にある感じだった。9年勤めて事情があって退職し、次の仕事を設計に定めて資格取得と経験を積むことにした。