設計事務所は県に登録するが管理する建築士を置かないとならない。管理建築士は専属で専任なのでだいたいが主掌者がなる。登録期間は5年、更新する。
最初に取得したのは2級建築士、サラーリマン時代に取った。独立した時は2級建築設計事務所だった。その後仕事も忙しく1級建築士を受けたのは12年経って平成12年だった。日建学院に通うのが普通で11年から通う。次の年の7月学科、10月が製図、結果が12月に発表だった。
ほぼ一年がかりで取った。1級建築士の有無は仕事でも行政への申請でも影響がある。他の建築士ができない仕事があってこれさえあればと言う資格である。巷での建設関連の資格では一番知名度があり施主に対して説得力もある。
独立すると仕事を続けること自体が難しい。明日をも知れぬ状態で試験勉強などできる筈がない。また簡単とはいかないから相当時間をかける。記憶力が衰え始めて時間も取れない。学校に通うだけでも大変だった。
本当のことを言うと仕事の予定が切れたのと12年経って振り返る余裕が出てきた。取らなければと言うやる気が出た。かなりの期間仕事を放り投げるから覚悟は要る。
学校の同期は落第組も含めざっと100人ほど。年齢は熱心に通った中では上の方だった。週に3回で毎回試験をして順位を発表する。2月ごろまでビリから数えたほうが早かった。毎年30人から40人くらい合格だから危ない成績だった。
3月頃になると脱落者が出て60人くらいしか残っていない。毎日発表の成績リストはまだ下から数えた方が早い。自分でも焦りが出て仕事も放り投げて勉強時間を増やした。事務所は弁当持参で勉強部屋と化した。
4月からは毎日10時間くらいは勉強した。家でもテレビは見ないし高校生だった子供たちと勉強した。その甲斐あってぐんぐん成績が上がり直前の6月にはベストテンに入る。後にも先にも熱を入れたのはあの時が一番だった。
その影響は娘が建築士をとる時に無言の教えになった。とにかく学科試験は38人受かってなんとかセーフだった。次は製図試験だが私は手書きの図面を描いていたから若いパソコン世代より有利だった。当時主流はCADになっていたが私はかなり遅かったので手書きが多かった。
製図試験は昼から夕方まで書くのだがプランを考える時間と製図時間がある。プランは予め課題はわかっているのですぐだが手書き製図の早さで差がつく。若手はほとんど手書きをしたことがないので遅い。
当時受験する若手はゼネコンの現地出張組が多かった。彼らは若く優秀で学科ではいつも上位独占だった。大学出の彼らはついこないだ迄学生だったので学科は強かった。地元組は働きながらの苦学生のようなもので成績は上がらない。
ゼネコン組は大学でも現場でもパソコンCADなので手書きの経験がない。製図試験はプランより描くスピードがモノを言うのでいつも間に合わない。学校では鉛筆で手を真っ黒にしながら苦闘していた。
建築士の難しさは学科と製図の別な才能を必要とするからだ。学科は優秀でも手書きの製図がお粗末なのはいっぱいいた。私のように経験があればスピードは早いしプランも慣れている。学科に受かっても製図試験を2回落ちるとまた振り出しだ。
苦手な学科を通って私は余裕で製図試験を受けた。そして12月の23日雪が舞い散る夕方5時頃学校からの電話で合格を知った。クリスマスケーキがそのまま私の合格祝いになった。その時48歳、県内で最年長合格者だった。