メーカーの営業を辞めたのは自分の意思でもあった。売り上げが伸びて社員も増え転勤も激しくなった。地元を離れて転勤で一生を終えるのは意に染まなかった。自分の意思でできる仕事に就きたいと思うようになった。得意先訪問で訪れた設計事務所にすごく興味が出てきた。
もちろん設計の仕事はおろか図面作製すらしたことがない。すぐになれるとは思わなかったのでまわり道をして資格を取るしかなかった。得意先だった会社が別会社でリフォームとインテリアの会社を始めると新聞で読んだ。伝を辿って強引に入社の交渉をした。
当時経営者の親族の方が競争で色々な業種の新会社を始めようとしていた。その中に当の会社があって責任者は私より一つ上だった。生え抜きの社員でなく他所で修行を積んできた方なので、社内からと言う基本を無視して私の意欲を買ってくれた。私には運が良かった。
開設準備室には前任者と責任者の4人がいた。2,3ヶ月開店準備に追われ人も増えてだんだん会社らしくなった。私はリフォーム部門を希望し配置された。とは言うものの資格はないし経験もあるわけではない。採用する側にしたらかなりの冒険だったに違いない。
すぐに二級建築士を受験することになり社内の勉強会に参加して取得した。当時インテリアも売り物にしようと女性の二級建築士をコーディネーターとして育成しようとしていた。通産省認定のインテリアコーディネーター試験も始まり3回目の受験を彼女と一緒に受けた。
経営者の方はインテリアに詳しく私と一緒に試験を受けた。3人受けて当の彼女以外の2人は合格した。肝心の彼女が落ちて計画が少し違って経費の無駄使いと騒がれた。当時は東京の青山学院大学まで行かないとならなかった。試験は3回目で青森県では初の合格者が3人いて社内に県内第一号が2人誕生した。
自分としてはコーディネーターは目的ではなかったが将来的に役に立つと思った。当時はまったくわからない資格でもあった。住宅の営業などで都会では脚光を浴びる資格なのも知らなかった。とにかく思いもよらないことに資格まで取らせてもらった。
新会社は暮れの12月からスタートして、私と彼女はリフォームやインテリア商品の販売に従事した。リフォームと言っても小さな工事が多く、チラシを撒いても中々集まらなかった。毎月の会議では売り上げ報告で営業マン時代と同じように上司にはせめらた。
仕事はブラインドやカーテンレールの取り付けが多く毎日忙しかった。親会社が建材店の大手なので仕事がまわってくるようになった。系列に住宅会社があるにもかかわらず新築も来た。設計は親会社がやるのでこちらはただ工事するのみだった。
さすがに会社も大きくチラシもあってリフォームが忙しくなって来る。年に100件とか担当するようになったが売り上げが小さく、相変わらず肩身の狭い思いが続いた。その所為もあって新築を無理にくっつけてもらっていた。
リフォームでは現場へ行き見積もりを提出して工事する。すべて一人でやるのですごく勉強になった。ある意味ではリフォームはクレームと同じようなもので、他社の欠点を直すと言っても良い。クレームから現場を覚えたことはその後の私の設計者としての心構えに影響していった。
原因を調べると設計時の間違いがわかるから、逆にこう言うことはやっていけないのがわかる。デザインとか見栄えから覚えたら現在の私のやり方ではなかったかもしれない。自分のその後の仕事に影響を強く与えた。
建物を先に見て勉強できたことは図面から覚えるより理解しやすかった。デザイン、理論を学び机上の空間作りとは別の設計手法になったように思う。設計者としては異質のタイプであることが、数の少ない木造専門の道に進むことになった。
就社の経緯が将来の設計者としての仕事にあったので、3年半経過して辞めることになった。受けた恩を考えると今でも採用してくれた経営者には頭が上がらない。私が辞めて10年ほどして売り上げ不振で会社がなくなった。昔の仲間は今でも系列の会社で働いているのもいる。くだんの彼女は資格を取ることなくやめて結婚した。