青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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私は卒業後色々な職を転々としながら祖母が亡くなった時に帰郷することにした。当時勤めていた会社が、経営がうまくいかず首になりそうなこともあった。25歳になっていた私が就職先に新聞広告に出ていたトーヨーサッシと言う会社を受けた。

トーヨーサッシはアルミサッシの製造メーカーで地元に支店を作る予定だった。運良く採用されて9年ほど勤めることになる。当時トーヨーサッシはシェアが少なく10位くらいの中堅メーカーだった。先輩の社員も高卒が多く、中小企業の雰囲気が濃く残っていた。

会社を起こしたのは潮田健次郎氏、たまたま父と同い歳で大正15年生まれだった。東京生まれなので関東地区でシェアが高く、地方へ進出する矢先の募集だった。20人ほどの受験者があって二人採用された。DSC_3919

アルミサッシ業界はパイオニアの不二サッシがYKKに追い越された直後だった。地方ではトーヨーサッシの売り込みは厳しく、シェアが少ないので苦労した。時代もあって猛烈営業が当たり前で、東京で遊び暮らした私には意識が変わるほどだった。

厳しい営業は社員が入れ替わりやすく落ち着かない環境だった。メーカーとしては新製品を先駆けて販売する会社だった。営業マンにも厳しい目標管理と同時に知識や訓練を何度もやらせる。ただ厳しいだけでは目標は達成できなから、そのやり方の勉強には時間をかけた。

叱咤激励と褒賞と言うムチとアメの使い方だった。毎月の目標管理の会議ではとことん上司に絞られた。あまりに厳しくて辞める社員が出たくらいだった。正直に言うと私も相当シンドくて何度か辞めようと思った。DSC_3926

入社して1年目の時に目標達成社員として表彰されたことがある。表彰者は飛行機で東京の本社に行き、直接社長から褒美を貰えた。その時に生まれて初めて飛行機に乗った。握手した潮田健次郎社長の手は温かく、私よりだいぶ小さくて思い込みと違うのを覚えている。

トーヨーサッシに勤めて一番学んだのはメーカーの先を読む力だった。営業会議では市場予測が毎回でるがそれがピッタリと一致するのにはびっくりした。上層部の幹部の頭の良さや将来予測が的確で商品開発力もバツグンだった。

住宅用アルミサッシの開発力は他社をリードし寄せ付けない。将来を予測し的確な商品を開発し市場ではトップで販売をする。その基本はシェア争いでもバツグンの力になり、9年の在籍中に国内トップになってしまった。DSC_3887

会社が伸び始めることは社員には必ずしも良い結果を生まない。転勤や職場の変更が多く、私も転勤を何度か言われていた。結婚もして自分なりにやりたいことと違うと思って辞めることにした。転勤する営業マンで終わりたくなかった。

その後トーヨーサッシはトステムと名を変え今ではリクシェルという名に変わった。アルミサッシだけでなく住設まである総合メーカーになってしまった。他社に先駆けて新製品を発売すると言う人と違うことをしないと生き残れないのを学んだ。

メーカーの戦略手法には相当の金がかかって、人材も豊富で地方の企業などでは太刀打ちできない。しかし規模の大小を問わず人と違うことを先にやれば可能性があることを学んだ。営業マンとしての成績は決して良くなかった。自営で苦しくなっても当時の猛烈な営業を思えば我慢できた。それが一番の収穫だった。DSC_3929