青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

090-1060-9764

エアコン

昨日も暑かったが今日も暑い。曇りがちで少しだけマシなような気がする。
事務所の窓を全開にして風を通すと我慢できる限界でエアコンをつけなくても良い。
自宅にもエアコンはないので毎年暑がりの家内に攻められる。せめて寝室だけでもと言われる。
一階の続きの和室に寝ると快適なのだが布団を敷くのが面倒らしい。私は暑い日は和室に寝る。

新しい設計をする時は通風を重視する。エアコンに頼るのではなく自然の風を通したい。
高気密は冬の暖房を主眼にしており夏はあまり考えていない。寒冷地ではどこもそんなものだが温暖化となればそうもいかない。
これから真夏日が続くこともあるので涼しく過ごせるのは大事になる。何でもエアコンではなく通風による冷房も考えたい。

薪ストーブとエアコンの組み合わせが多いが夏に使えるのも一因だ。暖房の補助と冷房ということだ。
薪ストーブは家全体に熱が回るように設計する。そのことは通風にもなる。
一階の熱を二階まで送ることは夏になると涼しくなるに違いない。ただ二階は熱が溜まることになるのでそれをどうするかだ。
ロフトを作ってそこから熱を逃がす構造にしたりする。上昇気流が発生するという感じだ。CIMG2144


職人のこだわり

昨日は葬儀で夕方までかかった。亡くなったのは103歳でたくさんの参列者があった。
これからこう言う超高齢者というか長生きの方が増えると思う。自分と配偶者、子の配偶者、孫の配偶者さらに曾孫までいる。
文字通り一族郎党の集まりになってしまう。子世代が80歳代孫世代が50歳代曾孫が20歳代になってしまいます。
これだけ集まるのはもう暫くないと思います。遠くから来る親戚もあってちょっとしたイベントのようです。

今日は図面もなく見積書類の書式を直したりブログやコラムの手直しをしました。特にコラムは長いので大変です。
原稿用紙4枚弱ですが読み返せば文章の不備や語彙の間違いなどが結構あります。これで10枚とかになるとどれだけ大変か。
小学生の時に夏休みの宿題で書かされましたがあれはシンドイものでした。頼まれもしないのに何十枚も書くわけですから疲れます。

HPの作り変えはかなり前から計画したのですがその際に職人のこととか現場のことを書きたいと思っていました。
自分の家を建てるのに職人が必要なのですがどういう人たちか良く知らないと思います。家は三分の一材料三分の一工賃三分の一諸経費と言われます。
三分の一を占める職人たちの工賃ですがだんだんその金額は減りつつあります。建材が増えて省力化が進んだからです。
手作りからドンドン離れてできたものを組むと言うのが当たり前になりました。ゼロになることもないので建て主に職人の心意気やこだわりのようなものを知って欲しかったのです。


久しぶりのブログ

ここしばらくはコラムばかりでブログはお休みしていました。今日は法事があって朝晩しか仕事ができません。法事が済んで戻ってから書いています。
明日はすこし打ち合わせがあって午後からまた葬儀。高齢の叔父叔母が多いのでこれからも続きます。
両親は長男長女なので下が一杯いるってことです。久しぶりに会う親戚ですが皆歳をとって明日の葬儀は104歳です。
モタモタしていると私の方がどうにかなりそうです。現役で頑張ってまだまだ長生きしないと。

連続で延々と続くコラムですが原稿は書き溜めてありました。直して写真をつけて1時間ちょっとでできます。
書き溜めたのはもうないのですが職人のことなどをこれからも続けたいと思います。コラムは文字数で1500字前後。
原稿用紙4枚弱、テーマが決まらないと書けない量です。ブログなどはいきなり書いていきますがコラムは無理です。
テーマを決めてあとは思いつくまま書き1,2日おいて手直しします。読み返せばけっこう間違いや思い違いがあるものです。

コラムはいつかは職人の世界を書きたいと思って溜めていました。家を建てるかたに職人はどんな人たちか知って欲しかったのです。
身内や親戚にでもいれば分かるでしょうが理解しにくい人たちです。サラリーマンが普通なので感覚がよく分からない方が多いでしょう。
独特の価値観を持ちある意味では規格外のような人たちです。話してもなかなか理解しにくいところがあります。
お上品ではありませんし勉強が苦手か興味なしが多いのです。サラリーマンだけで家ができるわけではないのでこういう人たちもいると言う事を知るのは大事なことです。


職人の世界—–大工その3

事務所を建てて21年になる。独立して6年目で土地を買い建てた。最初の借金の始まりで今に至っても増え続ける。思えば無理に借金をするのはこの時からだ。

当時借りていたところが今の事務所のすぐ下にあった。事情があって出ることになりいきなり事務所を建てようと思いつく。すぐ上のトンネル工事現場の脇に三角の小さい敷地を見つけた。

地主に交渉したら工事用に半分以上貸していると言う。トンネルの両側に工事道路ががあって皆で敷地を貸していた。三角なので貸している面積の方が多かった。残った部分だけ見て小さいし買えると思っていた私は諦めかけた。

すると借地料が入るから買えと地主が言う。向こうにも事情があって話がまとまって借地料込みで買った。以来トンネル完成まで借地料でローンを払うのが10年続いた。DSCF0008

当時母方の伯父が農地に貸家を建てることになり請け負った。総金額が大きく規模もあってそれまでの大工だけだと足りなかった。紹介を受けて近くに住む大工が人数を集めて貸家工事に入ることになった。

その工事が終わる間際に事務所建設が始まった。貸家工事と同時に宅地分譲をして建てる計画だった。つまりすぐ続けて工事があって資金繰りも余裕があった。だから頭金なしで土地と建物のローンを組んで着工できた。

その貸家工事と事務所を続けて建てた大工がHだ。私より2歳若く大手の住宅会社の下請けをしていた。合理的な考え方をして普通の大工と少し違うところがあった。付き合ったことがないタイプだった。

それまでは現場も少ないのでその都度大工を見つけていた。何棟も続けて付き合うのは彼が最初だった。大手の現場をこなすことで新しい建材とか工法をよく知っていた。それまでの大工は古いやり方から抜けられないところがあった。File-043

見たこともない金物とか工具を見せられて驚いた。彼自身も新しいもの好きで合理的なところは先輩大工と合わなかった。当時は新しい大工と思ったが手抜き工事と紙一重の危険な仕事でもあった。スピードアップするためには大手は手段を選ばないのがよくわかった。

スピードアップはコストダウンに繋がり4,5年彼と組んで建て続けた。2,3年くらいしてから現場のクレームが増え大工のレベルに問題があった。貸家のようなものでは良いが一戸建てでは通用しない。

仕上げの丁寧さとかは大工の腕による。キッチリと仕上たものは後で狂わない。スピード第一の大工は端折ったり手抜きをする。床が波打ち壁が歪む….素人にもわかる程ひどかった。安いし早いので続けたが現場管理の甘さとしか言いようがない。

そのことが反面教師になって丁寧でがっちりした仕事を目指すようになった。アフターを通して勉強したなどと今では赤面モノだ。その後はオトーサンとかTのような大工に仕事は流れるようになる。File-051

彼は今でも大手の仕事を中心に頑張っている。逆にオトーサンとかTのような大工の方が仕事が減って苦労している。悪貨は良貨を駆遂する例かも知れない。時代の流れに乗っているとも言えるが。

大手の現場のやり方を彼から学んで対抗する難しさがわかった。徹底的に大手のやらない分野に集中しないと生き残れないと思った。専用金物や建材でスピードアップを図り大工にもやり方を迫る。早く言えば手抜き工事に近い。

食っていく為に何でも有りは仕事としては面白くない。やはり施主に喜んで貰って感謝されるような家つくりが王道だ。目新しさに目が眩んで一時は喜ばれても家は長く使うものだ。いつかは信用されなくなる仕事はできない。

彼との付き合いはそれを教えてもらったのが一番大きい。おかげで国産材を使った真壁の家つくりができるようになった。


職人の世界—–大工その2

付き合った中で一番年配の大工だったオトーサンさん。70代だったが動きは機敏で目つきも鋭くいかにも昔の棟梁らしかった。
建てた家を見て気に入った私が大工の名前を聞いて会いに行った。当社からは少し遠く片道一時間近くかかる。こちらからお願いした手前少々高くなっても止むを得ないと思っていた。

当時はプレカットが主流になり始めて大工たちもやりたがった。私的には違うと思ったので大工を探さなければと思っていた。通りかかった家を見てピンときて見せてもらった。
自分がやりたいと思う家だった。曲がりも使って漆喰で仕上げてあった。デザイン的には見るべきものはなかったが構造は気に入った。

最初の現場は私の自宅の近所だった。若くて何でも自分でやりたがる施主だった。小さく外観も若者向けだったが内部の古臭さとギャップがあった。
棟梁は弟子たちからオヤジとかオトーサンと呼ばれていた。私たちは親しみを込めてオトーサンと呼んでいた。
DSC_0817

オトーサンは曲がりや大黒を使って古民家そのものを建てていた。曲がりは手斧削りで初めて見て少し感動した。
お医者さんの瓦の載った古民家風を予定していたので続けてやってもらうことになった。オトーサンとはこの二棟しか付き合いがない。
新しい家つくりを考えたので別の大工と付き合ったからだ。いずれ古民家風をやるときはお願いするつもりだった。

さすがに伊達に歳は食っていない。古民家風ではない現役の田舎の家つくりの知識は豊富だった。覚え始めた木の種類やきこりから聞いた知識があったので急激に木に詳しくなった。
曲がりの作り方や倉庫を見せてもらってどう言うのを在庫するか教えてもらった。体は動かさない知識だけの弟子入りみたいなものだった。

オトーサンの周辺はかなりの過疎地になる。農業以外さしたる産業もなく人口が減る一方だった。
大工たちも出稼ぎも多く地元の仕事が減ってオトーサンも苦慮していた。弟子たちがいるので何とか地元で仕事をと言う時期だった。
農家の二、三男が口減らしに小学生から住み込み弟子入すると言う昔の習慣がそのままだった。だから弟子たちには文字通りオトーサンであって実の親以上だったろう。
DSC_0557
オトーサンも弟子は子供だから仕事探しに引退する暇はなかった。
そこに飛んで火にいる何とやらで突然仕事が舞い込んできた。本気で当社と組んで仕事をと思っていただろう。
色々あって当社も何社か大工を抱えようとしていた頃だった。たまたまオトーサンにふさわしい仕事がなかったのもあって2,3年縁が切れた。

特産のニンニクをぶら下げて事務所へ遊びに来たこともあった。古民家風でない家つくりに夢中になって忘れかけていた。
オトーサンは現場仕事をしない棟梁でペースも遅かった。腕は問題ないが海千山千のオトーサンは駆け引きが上手で安くはなかった。あれから10年以上になるが今に至るまで仕事がオトーサンのところへ行くことはなかった。

最初に建てた現場を大学生だった息子が遊びに行って見ている。何も言わずじっと大工たちを見ていた息子はそのとき何を考えていたか。のちに大工になりたいと言ったときそのことを思い出した。
今年に入って息子が現場で働いているオトーサンを見たと言う。80代になっているはずだから弟子たちのために今でも引退でしないで頑張っていると言うことだ。私の息子を見て目を細めて思い出す風だったと言う。