自然素材とか健康住宅は時代が変わっても施主からの支持を受ける。誰も不健康な住むだけで病気になりそうな家は望まない。しかしながらみんなで渡れば怖くない式の無責任な妥協もあることは確かだ。
私は結婚以来時代の先端を行くような自分の家を持った事がある。その欠点や不健康さや耐久性のなさを体験で理解してきた。家を作る設計者、大工すべてが気づかなかった重大な欠点だった。あの頃はそんなものだと言う安易で無責任な思想だ。
自分一人だけ時代に棹差すようにやり方を貫くのは無理がある。材料や職人などの技術すべてを揃えるなんてのは不可能だ。量より質は所得水準や文化レベルの向上で少しずつ変わっていくものだ。
着工数が100万戸を軽く超える時代には、地方においては主役は大工工務店だった。少なくとも住宅会社よりは多かった。彼らはつい昨日までノミカンナを持った職人だったものも多い。明確な住宅に対するポリシーもなく技術の進歩に疎かった。
メーカーや建材店は手間のかからない建材を売り込んだ。儲かると言う欲に釣られてアッと言う間に建材だらけの家つくりになってしまった。手間がかからず利益が上がるというセリフはほとんどの元大工たちに受け入れられた。
気がつくと皆同じような家つくりになり、差別化と称してフランチャイズにまで加盟する始末だ。もちろんフランチャイズとて建材の家つくりには変わりない。情報が少なかった時代ならいざ知らず、勉強さえすれば何でも手に入る。
情報化社会はスマートホンも弄れない大工工務店より施主の方が進んだ知識を持つ社会だ。いくらメーカー、建材店から聞いても同じスピードで施主も理解する事になる。逆に言うとそう言った建材やデザインは他社との差別化はできない。
減った着工数は厳しい競争になるのは誰でもわかる。建材を使った家つくりが行き着くところはすべて既製品化された工業製品になるだろう。そこには選ぶだけで自分の思いを取り入れたり好みを追求する選択肢はなくなる。
食の世界は輸入品か国産かはあまり意味を持たなくなった。ファミレスであれ回転寿司であれ素材は量や質にこだわるだけで国産の手つくりとは縁がない。食材も輸入品の飼料が多いし純国産とは言い難い。
手刻みと真壁の家つくりは純国産に近いやり方だ。建材も使うが内容を把握できるもの限れば良い。原子力が嫌いでも電気は選べないのと同じで内容のレベルで使い分ければ良い。
家つくりの大手との差は大量生産品か手つくりかだ。施主のために自由にこだわりや好みを反映させることができる。価格やスピードだけでない家つくりがこれからのポイントになっていくだろう。
家を建てることもスーパーで買い物をすることも究極は客の満足にある。建材だらけの規格品のような家が客の満足を得るためには価格競争しかない。コストを下げて利益を上げるのはメーカーの常套手段である。
そういう家つくりとは一線を画し、徹底的に手間や暇をかけてやる方法は地方の小さな業者には向いている。そのことで施主に商品としての家でなく究極のオーダーメイドの家つくりを提供できる。
日本食の世界的な流行には見た目とか素材の活かし方など、従来の西洋料理になかったことが評価されている。家も価格しかメリットのない建材プレカットと違う価値を持つことができる。
古いデザインや工法にこだわるのでなく最新技術を取り入れた家が建てられる。情報化社会はメーカーの技術を得ることも取り入れることも可能になった。常にアンテナを張り新しいものに注目していけば最新の住宅となんら変わりない。
手刻みとか真壁の家は情報化社会でもわかりにくい部分が多い。その点は従来からの技術を残しながら新しいものをプラスしていかなければならない。すぐできるほど簡単なものではないが自分が望めばまた勉強をすればまだ間に合う。
情報化社会は情報を取捨選択することが重要だ。自分自身が尺度となる意志を持たないとメーカーなどに振り回される。膨大な情報量の中で自分自身のあるべき姿を見失わないようにすることが肝心だ。