青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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設計の世界—–車

27年も自営業をやると車遍歴もサラリーマンのようにはいかない。スタート時はそのまま乗用車。現場管理をしているとゴミとか資材を運びたくなる。小さい仕事だと余計自分でやらないといけなくなる。

乗用車から乗り換えたのは今はなくなったダブルキャブトラック。4人乗れて後ろに荷台がついた4輪駆動ディーゼルだ。マニュアルでオフロードタイプで人気があって流行っていた。それまで乗用車しか乗ったことがなかった。

郊外に住んでいるので自宅周辺は山だらけのオフロード。小学生だった子供を乗せ未舗装の荒れ地を走り回った。4輪駆動で大径タイヤの威力はすごく思えた。オフロードバイクも乗ったことがあって同じようなものと急峻な崖に挑戦した。CIMG0917

所詮は見た目のオフロード車でただの4駆のトラックである。湿っぽい土に4輪スリップ状態になりあえなくスタック。通りかかった乗用車に牽引を頼むがトラックの方がはるかに重い。不安にベソをかいた子供たちを乗せたまま探しに行って大型トラクターを見つけた。

何とか脱出して見た目だけのオフロード仕様は雪道に強い4輪駆動なのがわかった。オフロードバイクと違いトンデモないことになるのを学んだ。バイクは文字通りどこでも腕さえあれば走れる。

ハイラックスのダブルキャブ2700ccディーゼルは燃費は悪くなかった。リッター10キロは走る。4ナンバーなので車検は毎年だが税金は安い。毎年車検は考えようによっては整備をまとめてやるから丁度いい具合だ。トラックはとにかく壊す。DSC_3654

仕事も順調で現場も増えて運搬の回数が増える。ダブルキャブは荷台長さが1.3mしかなくてコンパネ一枚も積めない。ダブルキャブが当時大流行してカーディーラーから売ってくれと何度も電話が来た。

下取りが高かったのと乗用車も欲しくなった私は今も乗っているピックアップに乗り換えた。身分不相応とも言える外車のバンと2.1mの荷台の大きなトラックを買って有頂天だった。外車はそれまでの国産車と違いすぐ壊れて話にならなかった。

決断も早いが諦めるのも早い私は一度も車検を取らずに外車を売っ払った。後々ピックアップに22年も乗ることになるなんて夢にも思わなかった。また乗用車を買うつもりだったのだ。CIMG0780

若い時は車が欲しい、一種の病気のようなもので当時は3ナンバーが大流行していた。300万円以上の車がバンバン売れた時代だった。今中国がそういう状態に近いだろう。派手めで格好優先車が売れる。

家も同じで見た目最優先は後で高くつく。車と同じで壊れないのが一番で長持ちを優先するべきだ。乗り換えたピックアップは故障は少なく部品も安い。燃費も車体重量の割には良くて軽油なので安い。

車重1.5トンは伊達でなくシャーシが丈夫で多少積み過ぎても軋まない。ダブルキャブは前がウィッシュボーンで乗り心地は良かったが積みすぎると傾いた。こちらは4輪板バネで乗り心地は悪いがミシリとも言わない。

新興国のトラックは4輪板バネが主流だ。故障が少ないのと自分で交換もできる。砂漠やジャングルで故障したら命が危ない。タイなどで生産されているトラックが国内に入らないのは排気ガスもあるが乗り心地が相当硬いからだ。CIMG0790

ピックアップに乗り続けるには覚悟が要る。相当硬いショックと板バネにリサーキュレイションボルトのハンドルは切れ角が小さい。狭い駐車場だと簡単に出入りできない。2トントラック並みだと思えば良い。4車線のUターンは大きく廻らないと恥をかく。

仕事でクレーン付きとか2トントラックとか所有したが処分して今は残っていない。維持費も車検や保険、修理費で相当だ。一年に1000キロと借りた方が安上がりになる。買うより借りるリースの時代が来た。


設計の世界—–設計手法

長く仕事を続けると素人である施主が何を望むか少しずつわかって来る。流行り廃りも大きいし家のイメージは年々変わる。テレビのCMの影響はビジュアルのデザインという要素を強くした。一部を切り取って都合の悪い部分をデフォルメして流すのが普通だ。CMだから仕方がないが一瞬の印象だけを強く受ける。

施主がどう言うのを望んで家を建てるかをすぐキャッチ出来るのは才能だ。普通は暖かく明るい家が一番人気で好まれる。断熱はとにかく明るい家すなわち窓の大きな家はいつまでも人気がある。断熱はメーカーや建材店などが必死で売り込むから年々進化している。予算さえ許せば最高のものを手に入れるのは簡単だ。

明るい家はイメージとして捉えがちで断熱のように数字化しにくい。照明器具などと昼の明るさがあるが日中の陽がサンサンと入るイメージが多い。建築基準法では床面積の1/7の開口面積が必要だ。面積よりも位置が重要で大きく差が出る。000_0598

窓から逃げる熱損失は壁などよりも3倍も大きい。大きな開口は明るく魅力的だが熱損失が大きく暑く寒い。暑さ対策には直射日光を遮ったり大きな開口で換気出来る方が有効だ。エアコンにだけ頼ると開口を高性能にしても少しも省エネにならない。

何回も家を設計して住んでからの施主の意見も聞くことが多い。設計時に狙った効果が上がらず逆に予想しなかった効果が上がることもある。換気とか明るさは家の向きや隣地により大きく影響を受ける。風の流れを予測しないと窓を開けても空気が流れない。

天窓は明るさという点では優れている。しかも隣地の影響も受けにくいい。同じ面積なら3倍明るく囲まれた部屋などでは有効だ。欠点は屋根に設置する場合は結露しやすく掃除も面倒だ。DSC_2791

日本のサッシの断熱性能は世界的には劣っている。中国や韓国の基準より日本の方が低い。欧米はもちろんもっと厳しいが家のデザインに自由度がなく種類も少なく安い。

省エネ基準は平成20年から厳しい基準が義務化される。トリプルガラス入りは標準になる。価格的に高くなるので小さくしたり引き違いなどが減ってくるだろう。引き違いサッシは開口面積を大きく明るくできるが省エネには不利だ。

住宅会社や工務店などは省エネ基準をクリアするために開口を小さく高性能にする傾向がある。コストも下がるが換気や明るさには無理がある。しかも外部デザイン最優先で一般的に開口は小さい。建ててから暗い家が多くしかも隣地から影を考慮しないのもある。DSC_2788

省エネ性能ばかり謳って住んでからの換気不足でエアコンフル回転の家になりやすい。それにビニールクロスと建材多用では健康にも悪い家になる。価格競争もあって見学会では日中の暗さは照明で誤魔化し換気も最低の基準クリアで済ます。

当社のように古民家とか和風っぽいデザインは開口が大きなりがちだ。南面だけを大きく他を小さくして数字的にはクリアできても換気通風ができない。敷地の風方向を調査し開口の配置を考えないとならない。日の入らない窓はトルプルなど高性能化し小さくする。明るさもあって数を増やす必要が出てくる。

ヨーロッパでは屋根とか外壁に規制がかけられるところが多い。そのために古き良き時代の風景が残されている。しかしその場合でも省エネの基準はしっかりと守らなくてはならない。一番逃げる開口が小さく高性能になっている。

規制のおかげで外部デザインは不可能だからその分コストが下がる。しかも街並みの統一感があり石やコンクリート造りなので長寿命で窓のコスト分は十分ペイする。日本では自由すぎるデザインが街並みの不統一とコスト高を招いている。DSC_2816


設計の世界—–危機感

平成12年に晴れて一級建築士となり事務所の看板も名刺もすべて直した。試験に受かったからと言っても特に仕事の腕が上がる訳でもない。知識が勉強した分増えたが現場で対応するのとは少し違う。あえて言えば名刺の肩書きが変わって施主や業者から見る目が違ってきたかも知れない。

年表などを見ると平成12年頃を境に設計の手法が少し変わっている。それまでは工法や材料にあまり関心がなく現場が取れれば何でも良しとする傾向が強かった。親戚や友人などから貰うのがほとんどだったからだ。ややもするとデザインから予算までお任せと言う施主ばかりだった。

安易な設計と甘い現場管理で平凡な家作りが続いていた。もちろん今のようにいつも仕事がある訳でもなく危機感は感じていた。試験に挑戦したのもその裏返しだった。危機感が強ければ強いほど勉強は身に入る。IMG_7473

取得が直接の原因だったか危機感が最初か思い出せないが両方だったと思う。基本的に設計のポリシーとか仕事に対する執念のようなものが欠けていた。それほど強く意識はしなくても漠然とこのままではダメだと思っていた。

平成6年に親戚の山から出して建てたことがあった。不良在庫と業界の不慣れでコリゴリと忘れていた国産材の家作りを思い出した。山の崩壊が始まりかけていた森林組合などから後押しがあった。国産材の家をウリにしようと思い周囲の協力を得て始まった。

普及しつつあるプレカットに安い割りに高品質な外材に押され森林組合などはライバル心をむき出しにした。その協力で山出しをして洋風から和風っぽいデザインでやろうと思いついた。手刻みは当たり前だが見た目だけ変えても大壁のビニールクロスでは差別化できない。もっとも当時は差別化よりも何が良いのか迷っていただけだが。IMG_7458

手刻みの古民家風の家作りを思いついたのは一級建築士になったのがきっかけだったと思う。設計者は優れたデザインとか他人と違うものをと考えるのが普通だ。建材やタイルを貼ったり変わったクロスを貼るのだが他所と大した違いがない。

山出しをして建てると言う発想は普通ではあり得ない。そんな手間をかけずとも材木店があるしプレカットも増え始めていた。山出しと言う前提があって古民家を着想したし、そこが他所と大きな分かれ目だった。そのタイミングで一級建築士だったのだ。

大きな船がゆっくり旋回するように建てる住宅に少しずつ山から出した材木を入れていく。古民家風を取り入れながら新しい住宅を作るつもりで設計をした。もちろんトラブルや苦労は前に書いた通りで資金も含め大いに苦労した。IMG_7467

平成13年頃から100%山出しで建てるようになり漆喰や羽目板などの加工で仕上げた。16年頃から本格的な古民家風や真壁の家が増えていった。当時は自分の読みが当たったかと調子に乗ったところもあった。展示場やトラックの購入など借りれも増えて経営は厳しかった。

キッカケと言うのは色々あるが仕事においては資格は重要な要素になる。他では出来ないことを可能にするのが資格なら他で出来ないことをやるべき義務もまたある。向上心のために資格は大いに助けになる。資格を取っても何も変えないのもあると思うが出来るのにやらないのはもったいない。

17年と二級建築士の期間より一級建築士の方が長くなった。他人の評価を気にして生きるわけではないが一般的には評価される方が多い。私の場合は向上心の触媒のような役割を果たしているように思う。

私は建築関係の学校を卒業していない。だから二級建築士の受験資格は経験7年で受けた。一級建築士も経験2年が必要だった。しかるべき大学出身者は経験なしでいきなり一級建築士を受験できる。(現在は経験が必要)一級建築士になるには11年以上かかる計算になる。IMG_7466

文系の大学に行ったのは高校生の時に数学が不得意だったことによる。教師は合格の可能性から理系でなく文系を勧めた。設計士に漠然と憧れはあったものの安易に妥協してしまった。その時の思いがあった訳ではないが、転職しながら結局は建築関係の会社だった。

設計部門には当然いけないし営業としてアルミサッシを売り歩いた。その時でも販売店廻りよりも設計事務所への売り込みが楽しかった。漠然と自分がなりたかった職業のイメージが目の前にある感じだった。9年勤めて事情があって退職し、次の仕事を設計に定めて資格取得と経験を積むことにした。


設計の世界—–建築士と設計

建築士は試験に受かってから登録して建築士を名乗る。衰えたと思った記憶力も訓練さえすれば元に戻る。いや伸びる事だってあると言うのを今回確信した。宅地建物取引主任者や福祉住環境マネージャーとか間に合った資格は全部取った。

取っても食えないので足の裏の米粒などと言われた建築士だが施主には一定の信頼を与える。仕事を取るためではなく取った仕事を遂行するために必要だった。やはり法規を勉強し申請などに知識はモノを言う。一緒に学校に通ったり前後の取得者が行政にも居るので人脈のようなモノができる。

建築士なのに知らないのかと思われないように勉強もする。間接的な効果も含め私には大きな自信になった。やはり肩書きは他人の目からも自分自身のプライドのためにも大きな価値があるようだ。妙に威張るなんてのは問題だが。100_3777

年々複雑になる法律だが全て理解するのは大変だ。一人で考えても理解できない事を他の建築士から聞くと簡単にわかる。それまで全く自分一人で営業、申請、現場管理をやってきた。しかし法の隙間を狙うような難しい建て方をするようになって疑問点が増えてくる。

行政に聞いたりしてもなかなか理解できない。たまたま瑕疵担保保険の現場検査にきた建築士と知り合いになった。申請を手伝ってもらったりしながらわからなところを聞くようになった。言わば顧問的な立場という感じだ。

本当はそう言う社員がいれば良いのだがそんな余裕がない。申請業務は慣れも必要で行政の指摘ポイントがわかってくる。書式や指摘事項の訂正法など慣れてくるとやりやすくなる。私は丸太の運搬とか製材所行きで忙しく彼のサポートはすごく効率がよかった。100_3772

設計は打ち合わせから始まって材料などの知識を駆使してプランをしていく。法的なものはわからないと無難なものになるので法の隙間のような部分を調べたりする。軒裏の仕上げなどは建築基準法では板張りも可能だが行政は防火の観点からやめるよう指摘を受ける。

家の設計は法的な部分の解決が大事でデザインなどは問題点が少ない。施主には重要でなくとも現場は別な観点から問題になる。木の家では防火上の制限が時々出てくる。申請で指摘を受けないよう十分に検討しないといけない。

最近相談者が増えているが行政に申請する建築士には向いている。施主が最初にどのような建物が可能か知らないとイメージがわかない。土地により建てる事自体が難しかったり面積により建てられる大きさが決まる。IMG_7491

どちらかと言うと住宅会社や工務店は現場取得が目的だ。業者を決める前の大雑把な相談は営業という観点しかないので向いていない。いかにして現場を決めるかが一番の目的なので仕方がない。設計事務所は相談には一番向いている。

一般的に設計事務所は敷居が高いと思われている。最近はそうでもないと思うが住宅以外が専門だとまともに相手をしてもらえない。相談する前に自分の好みや目的に合わせ設計事務所を選ぶ法が良いかもしれない。

当社は国産材を使った真壁造りで漆喰と羽目板などの仕上げを得意とする。流行りのプレカットやビニールクロス張りはやらない。これは会社のポリシーなので例外はない。なんでもできると言うのは施主には便利に思えるが得意分野がないとも言える。

法的な事は良いとして設計デザインなどに得意不得意がないのはおかしい。得意な分野は他社より優れている部分と言えるから何でもとは全て平凡という意味だ。かなり断定的な言い方だが個性的なウリを持つ事こそ設計事務所だと思う。IMG_7498


設計の世界—–一級建築士

設計事務所は県に登録するが管理する建築士を置かないとならない。管理建築士は専属で専任なのでだいたいが主掌者がなる。登録期間は5年、更新する。

最初に取得したのは2級建築士、サラーリマン時代に取った。独立した時は2級建築設計事務所だった。その後仕事も忙しく1級建築士を受けたのは12年経って平成12年だった。日建学院に通うのが普通で11年から通う。次の年の7月学科、10月が製図、結果が12月に発表だった。

ほぼ一年がかりで取った。1級建築士の有無は仕事でも行政への申請でも影響がある。他の建築士ができない仕事があってこれさえあればと言う資格である。巷での建設関連の資格では一番知名度があり施主に対して説得力もある。100_1298

独立すると仕事を続けること自体が難しい。明日をも知れぬ状態で試験勉強などできる筈がない。また簡単とはいかないから相当時間をかける。記憶力が衰え始めて時間も取れない。学校に通うだけでも大変だった。

本当のことを言うと仕事の予定が切れたのと12年経って振り返る余裕が出てきた。取らなければと言うやる気が出た。かなりの期間仕事を放り投げるから覚悟は要る。

学校の同期は落第組も含めざっと100人ほど。年齢は熱心に通った中では上の方だった。週に3回で毎回試験をして順位を発表する。2月ごろまでビリから数えたほうが早かった。毎年30人から40人くらい合格だから危ない成績だった。DSC_2585

3月頃になると脱落者が出て60人くらいしか残っていない。毎日発表の成績リストはまだ下から数えた方が早い。自分でも焦りが出て仕事も放り投げて勉強時間を増やした。事務所は弁当持参で勉強部屋と化した。

4月からは毎日10時間くらいは勉強した。家でもテレビは見ないし高校生だった子供たちと勉強した。その甲斐あってぐんぐん成績が上がり直前の6月にはベストテンに入る。後にも先にも熱を入れたのはあの時が一番だった。

その影響は娘が建築士をとる時に無言の教えになった。とにかく学科試験は38人受かってなんとかセーフだった。次は製図試験だが私は手書きの図面を描いていたから若いパソコン世代より有利だった。当時主流はCADになっていたが私はかなり遅かったので手書きが多かった。DSC_2555

製図試験は昼から夕方まで書くのだがプランを考える時間と製図時間がある。プランは予め課題はわかっているのですぐだが手書き製図の早さで差がつく。若手はほとんど手書きをしたことがないので遅い。

当時受験する若手はゼネコンの現地出張組が多かった。彼らは若く優秀で学科ではいつも上位独占だった。大学出の彼らはついこないだ迄学生だったので学科は強かった。地元組は働きながらの苦学生のようなもので成績は上がらない。

ゼネコン組は大学でも現場でもパソコンCADなので手書きの経験がない。製図試験はプランより描くスピードがモノを言うのでいつも間に合わない。学校では鉛筆で手を真っ黒にしながら苦闘していた。

建築士の難しさは学科と製図の別な才能を必要とするからだ。学科は優秀でも手書きの製図がお粗末なのはいっぱいいた。私のように経験があればスピードは早いしプランも慣れている。学科に受かっても製図試験を2回落ちるとまた振り出しだ。

苦手な学科を通って私は余裕で製図試験を受けた。そして12月の23日雪が舞い散る夕方5時頃学校からの電話で合格を知った。クリスマスケーキがそのまま私の合格祝いになった。その時48歳、県内で最年長合格者だった。DSC_2534