青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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設計の世界—–『室内』

リフォームの会社に入社して上司からある雑誌を読むように言われた。インテリア専門の雑誌で少し小さめの薄い雑誌だった。『室内』と言う名で私はそれまで読んだことがなかった。建築関係の雑誌は読んでもインテリアは門外漢だった。

室内は山本夏彦氏が昭和30年に発行したインテリア、家具関係の専門誌だ。著名コラムニストでもある山本氏は執筆者の選考も一風変わったところがあった。建築の関係雑誌としてはともかく執筆者の書く文章は超一流と言えた。文芸雑誌とも違う面白さがあった。

インテリア関係の記事としても一流で本誌には広告が少なく、その所為もあってページ数が少なく薄かった。記事のコンセプトも視点も他の雑誌とは違うところがあった。専門誌というのはメーカーなどの広告を記事にするいわゆる提灯記事が普通だ。これだと広告主に阿ることになり本当のことが書けない。笹野邸完成100_0050100_0

ある号には『ハウスメーカーに騙されるな』と言う特集を組んだり、提灯記事ではあり得ないことだった。メーカーを実名を挙げ欠点を明らかにする。生活者の視点から見た欠点と良い点を項目で書き出す。

広告や後の影響を考えたら尋常ならざる企画に思えた。その姿勢は他の雑誌では考えられないことだった。そこから得た知識はメーカーに勤めた私には何より真実に近く思えた。

コラムニストとしても『戦争あるべし自然なら』、『女に選挙権はいらない』とか物議をかもすようなタイトルが多かった。その真意は別なところにあって読めばなるほどと納得する。シニカルな辛口の批評は物事の本質を見極めようとした私には慈雨のように思えた。設計者としてのあるべき姿がぼんやりとではあるが見えてきた。笹野邸完成100_0117100_0

私は建築学科や設計事務所勤務などと普通のコースではないところから始めなければならなかった。逆に言うと既存の思考やしがらみなど一切ないことは生活者の視点から建築を覚えるきっかけになる。リフォームを最初に経験したことは現場からの知識優先で難しい理論や知識から遠かった。

建築関係には二川幸夫氏の『GA』と言う有名な雑誌がある。こちらも発行人自ら発行の責任と選者となって独特の世界を作っている。建築は生活者の側に立つべきだと言う信念がここから学んだ。室内やGAのようなアカデミーっぽい世界とは無縁そうなものが馴染んだ。中でも室内は設計の基本となる考え方の知識を得るバイブルのようなものだった。

師と呼べるものもいない私には室内など雑誌から一番影響を受けた。権威とかアカデミーなものに反発する姿勢は室内に強くあった。メーカーなど広告主に慮ることなく本音で書けるのは室内だけだった。そこが25年も継続して読み続けた最大の理由だった。自分もまたこう言う本音で仕事を続けたいと思った。笹野邸完成100_0056100_0

企業倫理は厳しいのは良くわかっていたので逆に施主の立場で建築を考えようと思った。コスト的にも健康に配慮する姿勢でも自分の意思を貫きたいと思った。企業倫理とは相容れない場面もあるが基本はそうありたいと思っている。

室内は社主の山本夏彦氏の発行に際しての襟持が感じられる本だった。趣味的な記事が所々にあり、本命のインテリア記事も本音を他に憚ることなく載せている。いつしか木造専門になり住宅会社とかメーカーから縁の遠い設計者になった。

個人の意図を強く感じさせる雑誌は発行人の死で廃刊や休刊になるケースが多い。『室内』は山本夏彦氏が2004年に亡くなり2006年3月号で休刊した。25年分の本が並んだ事務所の書架もいつしか手狭になり処分してしまった。今になって少しもったいなかったと思うがすでに遅い。笹野邸完成100_0114100_0


設計の世界—–インテリアコーディネーター

メーカーの営業を辞めたのは自分の意思でもあった。売り上げが伸びて社員も増え転勤も激しくなった。地元を離れて転勤で一生を終えるのは意に染まなかった。自分の意思でできる仕事に就きたいと思うようになった。得意先訪問で訪れた設計事務所にすごく興味が出てきた。

もちろん設計の仕事はおろか図面作製すらしたことがない。すぐになれるとは思わなかったのでまわり道をして資格を取るしかなかった。得意先だった会社が別会社でリフォームとインテリアの会社を始めると新聞で読んだ。伝を辿って強引に入社の交渉をした。

当時経営者の親族の方が競争で色々な業種の新会社を始めようとしていた。その中に当の会社があって責任者は私より一つ上だった。生え抜きの社員でなく他所で修行を積んできた方なので、社内からと言う基本を無視して私の意欲を買ってくれた。私には運が良かった。DSC_3854

開設準備室には前任者と責任者の4人がいた。2,3ヶ月開店準備に追われ人も増えてだんだん会社らしくなった。私はリフォーム部門を希望し配置された。とは言うものの資格はないし経験もあるわけではない。採用する側にしたらかなりの冒険だったに違いない。

すぐに二級建築士を受験することになり社内の勉強会に参加して取得した。当時インテリアも売り物にしようと女性の二級建築士をコーディネーターとして育成しようとしていた。通産省認定のインテリアコーディネーター試験も始まり3回目の受験を彼女と一緒に受けた。

経営者の方はインテリアに詳しく私と一緒に試験を受けた。3人受けて当の彼女以外の2人は合格した。肝心の彼女が落ちて計画が少し違って経費の無駄使いと騒がれた。当時は東京の青山学院大学まで行かないとならなかった。試験は3回目で青森県では初の合格者が3人いて社内に県内第一号が2人誕生した。DSC_3870

自分としてはコーディネーターは目的ではなかったが将来的に役に立つと思った。当時はまったくわからない資格でもあった。住宅の営業などで都会では脚光を浴びる資格なのも知らなかった。とにかく思いもよらないことに資格まで取らせてもらった。

新会社は暮れの12月からスタートして、私と彼女はリフォームやインテリア商品の販売に従事した。リフォームと言っても小さな工事が多く、チラシを撒いても中々集まらなかった。毎月の会議では売り上げ報告で営業マン時代と同じように上司にはせめらた。

仕事はブラインドやカーテンレールの取り付けが多く毎日忙しかった。親会社が建材店の大手なので仕事がまわってくるようになった。系列に住宅会社があるにもかかわらず新築も来た。設計は親会社がやるのでこちらはただ工事するのみだった。DSC_3770

さすがに会社も大きくチラシもあってリフォームが忙しくなって来る。年に100件とか担当するようになったが売り上げが小さく、相変わらず肩身の狭い思いが続いた。その所為もあって新築を無理にくっつけてもらっていた。

リフォームでは現場へ行き見積もりを提出して工事する。すべて一人でやるのですごく勉強になった。ある意味ではリフォームはクレームと同じようなもので、他社の欠点を直すと言っても良い。クレームから現場を覚えたことはその後の私の設計者としての心構えに影響していった。

原因を調べると設計時の間違いがわかるから、逆にこう言うことはやっていけないのがわかる。デザインとか見栄えから覚えたら現在の私のやり方ではなかったかもしれない。自分のその後の仕事に影響を強く与えた。

建物を先に見て勉強できたことは図面から覚えるより理解しやすかった。デザイン、理論を学び机上の空間作りとは別の設計手法になったように思う。設計者としては異質のタイプであることが、数の少ない木造専門の道に進むことになった。

就社の経緯が将来の設計者としての仕事にあったので、3年半経過して辞めることになった。受けた恩を考えると今でも採用してくれた経営者には頭が上がらない。私が辞めて10年ほどして売り上げ不振で会社がなくなった。昔の仲間は今でも系列の会社で働いているのもいる。くだんの彼女は資格を取ることなくやめて結婚した。DSC_3802


設計の世界—–潮田健次郎

私は卒業後色々な職を転々としながら祖母が亡くなった時に帰郷することにした。当時勤めていた会社が、経営がうまくいかず首になりそうなこともあった。25歳になっていた私が就職先に新聞広告に出ていたトーヨーサッシと言う会社を受けた。

トーヨーサッシはアルミサッシの製造メーカーで地元に支店を作る予定だった。運良く採用されて9年ほど勤めることになる。当時トーヨーサッシはシェアが少なく10位くらいの中堅メーカーだった。先輩の社員も高卒が多く、中小企業の雰囲気が濃く残っていた。

会社を起こしたのは潮田健次郎氏、たまたま父と同い歳で大正15年生まれだった。東京生まれなので関東地区でシェアが高く、地方へ進出する矢先の募集だった。20人ほどの受験者があって二人採用された。DSC_3919

アルミサッシ業界はパイオニアの不二サッシがYKKに追い越された直後だった。地方ではトーヨーサッシの売り込みは厳しく、シェアが少ないので苦労した。時代もあって猛烈営業が当たり前で、東京で遊び暮らした私には意識が変わるほどだった。

厳しい営業は社員が入れ替わりやすく落ち着かない環境だった。メーカーとしては新製品を先駆けて販売する会社だった。営業マンにも厳しい目標管理と同時に知識や訓練を何度もやらせる。ただ厳しいだけでは目標は達成できなから、そのやり方の勉強には時間をかけた。

叱咤激励と褒賞と言うムチとアメの使い方だった。毎月の目標管理の会議ではとことん上司に絞られた。あまりに厳しくて辞める社員が出たくらいだった。正直に言うと私も相当シンドくて何度か辞めようと思った。DSC_3926

入社して1年目の時に目標達成社員として表彰されたことがある。表彰者は飛行機で東京の本社に行き、直接社長から褒美を貰えた。その時に生まれて初めて飛行機に乗った。握手した潮田健次郎社長の手は温かく、私よりだいぶ小さくて思い込みと違うのを覚えている。

トーヨーサッシに勤めて一番学んだのはメーカーの先を読む力だった。営業会議では市場予測が毎回でるがそれがピッタリと一致するのにはびっくりした。上層部の幹部の頭の良さや将来予測が的確で商品開発力もバツグンだった。

住宅用アルミサッシの開発力は他社をリードし寄せ付けない。将来を予測し的確な商品を開発し市場ではトップで販売をする。その基本はシェア争いでもバツグンの力になり、9年の在籍中に国内トップになってしまった。DSC_3887

会社が伸び始めることは社員には必ずしも良い結果を生まない。転勤や職場の変更が多く、私も転勤を何度か言われていた。結婚もして自分なりにやりたいことと違うと思って辞めることにした。転勤する営業マンで終わりたくなかった。

その後トーヨーサッシはトステムと名を変え今ではリクシェルという名に変わった。アルミサッシだけでなく住設まである総合メーカーになってしまった。他社に先駆けて新製品を発売すると言う人と違うことをしないと生き残れないのを学んだ。

メーカーの戦略手法には相当の金がかかって、人材も豊富で地方の企業などでは太刀打ちできない。しかし規模の大小を問わず人と違うことを先にやれば可能性があることを学んだ。営業マンとしての成績は決して良くなかった。自営で苦しくなっても当時の猛烈な営業を思えば我慢できた。それが一番の収穫だった。DSC_3929


職人の世界—–若い死

今年に入って縁のある職人が亡くなった。職人とは言っても経営者であり営業でもある。サラリーマン時代から付き合いがあって独立後も取引があった。外構工事専門業者で基礎工事や土留め工事などもやる。門扉、塀、車庫工事が得意だった。

彼の良いところはデザインが出色で多少金額が高くとも出来栄えがカバーする。新築すると必ず必要になるエクステリア関係は競争も激しい。工事自体は難しくないがデザインはできる業者が少ない。彼はデザイン感覚が優れていて他者を圧倒していた。

自分のデザインには相当自信を持っており見積もりも強気で値引きもしない。と言うより他の業者は工事だけが目的でデザインは施主や設計者にお任せが多かった。プロとしての提案もなくなんの魅力もなく最新の材料の知識もなかった。そういう点で彼の仕事は際立っていた。大工4:16-7

エクステリアプランナーとしての才能は高かったが営業も強気で工事費が高い。サラリーマン時代は親会社の意向もあって彼のところしか使わなかった。いわゆる指定業者だった。デザインに優れているので施主には喜ばれることが多かった。

私と中学が同じだった彼は、創業者の親がブロック積み専門業者としてスタートした。20代の頃から経営者として後を継いだので、年齢の割には老けて見えた。引き継いだ職人たちを動かすにはその方が良かったのだろう。とにかく若くして経営と営業で後を継いだわけだ。

彼のウリはもちろんデザインでパースもうまく勉強熱心でもあった。業界のリーダー的存在でメーカーや問屋の講師などもやっていた。大手の住宅会社にはほとんど入っており良い物件の多かった。額の張る良い物件でないと外構は見栄えがしない。大工4:18-5

外構業者には主に土木業者と庭園業者が多い。道路工事なども請け負う大手にもなれず、庭師でもない中途半端な業者が多い。職人を4,5人使って住宅の外構など小さな工事が主だ。

若くして経営にタッチして他の経営者仲間との付き合いにも熱を入れた。ロータリークラブとか年上の経営者から可愛がられたようだ。いつしか自分もそのような大手と同じだと勘違いしたような形跡がある。相手は従業員が数百人規模なので経営感覚が違う。

かなりの借金をしてホームセンターを開設することになった。経営者仲間のアドバイスとか下世話な言い方をするとそそのかしに乗った。絵に描いたように2年ほどで倒産し莫大な借り入れが残った。本業である外構の方も支払いが滞り評判を下げた。

当時私はようやく新築工事が軌道に乗り、外構は基礎業者に任せていた。彼に見積もりを依頼するとすごく金額が高かった。予算から言って無理な金額だったからだ。デザインは私が描いて基礎業者にやらせていた。その後も新築工事に忙しく外構は他業者に任せたりした。大工4:21-2

彼が厳しい環境なのは知っていたがすぐ取引再開にならなかった。デザインに自信を持つあまり予算的に厳しいのが原因だった。プライドの高い彼は下請け業者として仕事欲しさに値引きすることがなかった。そうやって私は彼と仕事の縁が切れていった。

それから10年ほどして共通の知り合いであった施主に外構の仕事を欲しいと電話があった。私は新築工事を彼は外構と別発注になった。別とは言っても同じ現場なのだから工事は重なる。打ち合わせも必要だし協力しないとできない。ところが彼らは自分たちの都合第一で現場が混乱することばかりだった。

昔の彼を知っていたので驚いたが借金返済が厳しいのか、工事のやり方も酷かった。何度か是正を頼んだが徹底的に自己中心の姿勢は変わらなかった。仕事のレベルもかなり低くなって往時のデザインも色あせていた。

職人らしさがあった時は仕事も丁寧だしデザインも素晴らしかった。ホームセンター倒産以来彼はすっかり変わってしまったようだ。デザインをする職人としての彼は才能に溢れ現場の職人も丁寧だった。いつしか自分の枠を超えた付き合いや慢心はすっかり変えてしまったようだ。大工4:24-2

その後も彼に仕事の依頼をしなかったし、付き合いも全くなくなった。その後地元では仕事がなくなったので遠くの現場をやるようになった。四国まで現場があって飛行機で移動するというスサマジさだった。その飛行機のなかで過労から心臓麻痺で亡くなった。

職人は殻に合った仕事をするべきだとその時思った。自営は見栄を張ったりプライドを持ちすぎると破綻する。地道に客相手に丁寧な仕事をしていればこんなことはなかった。30代でこの道に入った私は年下の彼から学ぶことは多かった。身の程を知ると言うのは大事なことだ。


設計の世界—–差別化

自然素材とか健康住宅は時代が変わっても施主からの支持を受ける。誰も不健康な住むだけで病気になりそうな家は望まない。しかしながらみんなで渡れば怖くない式の無責任な妥協もあることは確かだ。

私は結婚以来時代の先端を行くような自分の家を持った事がある。その欠点や不健康さや耐久性のなさを体験で理解してきた。家を作る設計者、大工すべてが気づかなかった重大な欠点だった。あの頃はそんなものだと言う安易で無責任な思想だ。

自分一人だけ時代に棹差すようにやり方を貫くのは無理がある。材料や職人などの技術すべてを揃えるなんてのは不可能だ。量より質は所得水準や文化レベルの向上で少しずつ変わっていくものだ。CIMG3565

着工数が100万戸を軽く超える時代には、地方においては主役は大工工務店だった。少なくとも住宅会社よりは多かった。彼らはつい昨日までノミカンナを持った職人だったものも多い。明確な住宅に対するポリシーもなく技術の進歩に疎かった。

メーカーや建材店は手間のかからない建材を売り込んだ。儲かると言う欲に釣られてアッと言う間に建材だらけの家つくりになってしまった。手間がかからず利益が上がるというセリフはほとんどの元大工たちに受け入れられた。

気がつくと皆同じような家つくりになり、差別化と称してフランチャイズにまで加盟する始末だ。もちろんフランチャイズとて建材の家つくりには変わりない。情報が少なかった時代ならいざ知らず、勉強さえすれば何でも手に入る。
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情報化社会はスマートホンも弄れない大工工務店より施主の方が進んだ知識を持つ社会だ。いくらメーカー、建材店から聞いても同じスピードで施主も理解する事になる。逆に言うとそう言った建材やデザインは他社との差別化はできない。

減った着工数は厳しい競争になるのは誰でもわかる。建材を使った家つくりが行き着くところはすべて既製品化された工業製品になるだろう。そこには選ぶだけで自分の思いを取り入れたり好みを追求する選択肢はなくなる。

食の世界は輸入品か国産かはあまり意味を持たなくなった。ファミレスであれ回転寿司であれ素材は量や質にこだわるだけで国産の手つくりとは縁がない。食材も輸入品の飼料が多いし純国産とは言い難い。CIMG3242

手刻みと真壁の家つくりは純国産に近いやり方だ。建材も使うが内容を把握できるもの限れば良い。原子力が嫌いでも電気は選べないのと同じで内容のレベルで使い分ければ良い。

家つくりの大手との差は大量生産品か手つくりかだ。施主のために自由にこだわりや好みを反映させることができる。価格やスピードだけでない家つくりがこれからのポイントになっていくだろう。

家を建てることもスーパーで買い物をすることも究極は客の満足にある。建材だらけの規格品のような家が客の満足を得るためには価格競争しかない。コストを下げて利益を上げるのはメーカーの常套手段である。

そういう家つくりとは一線を画し、徹底的に手間や暇をかけてやる方法は地方の小さな業者には向いている。そのことで施主に商品としての家でなく究極のオーダーメイドの家つくりを提供できる。CIMG3193

日本食の世界的な流行には見た目とか素材の活かし方など、従来の西洋料理になかったことが評価されている。家も価格しかメリットのない建材プレカットと違う価値を持つことができる。

古いデザインや工法にこだわるのでなく最新技術を取り入れた家が建てられる。情報化社会はメーカーの技術を得ることも取り入れることも可能になった。常にアンテナを張り新しいものに注目していけば最新の住宅となんら変わりない。

手刻みとか真壁の家は情報化社会でもわかりにくい部分が多い。その点は従来からの技術を残しながら新しいものをプラスしていかなければならない。すぐできるほど簡単なものではないが自分が望めばまた勉強をすればまだ間に合う。

情報化社会は情報を取捨選択することが重要だ。自分自身が尺度となる意志を持たないとメーカーなどに振り回される。膨大な情報量の中で自分自身のあるべき姿を見失わないようにすることが肝心だ。