青森県八戸市の一級建築事務所 建築組 パックス有限会社

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職人の世界—–大工その3

事務所を建てて21年になる。独立して6年目で土地を買い建てた。最初の借金の始まりで今に至っても増え続ける。思えば無理に借金をするのはこの時からだ。

当時借りていたところが今の事務所のすぐ下にあった。事情があって出ることになりいきなり事務所を建てようと思いつく。すぐ上のトンネル工事現場の脇に三角の小さい敷地を見つけた。

地主に交渉したら工事用に半分以上貸していると言う。トンネルの両側に工事道路ががあって皆で敷地を貸していた。三角なので貸している面積の方が多かった。残った部分だけ見て小さいし買えると思っていた私は諦めかけた。

すると借地料が入るから買えと地主が言う。向こうにも事情があって話がまとまって借地料込みで買った。以来トンネル完成まで借地料でローンを払うのが10年続いた。DSCF0008

当時母方の伯父が農地に貸家を建てることになり請け負った。総金額が大きく規模もあってそれまでの大工だけだと足りなかった。紹介を受けて近くに住む大工が人数を集めて貸家工事に入ることになった。

その工事が終わる間際に事務所建設が始まった。貸家工事と同時に宅地分譲をして建てる計画だった。つまりすぐ続けて工事があって資金繰りも余裕があった。だから頭金なしで土地と建物のローンを組んで着工できた。

その貸家工事と事務所を続けて建てた大工がHだ。私より2歳若く大手の住宅会社の下請けをしていた。合理的な考え方をして普通の大工と少し違うところがあった。付き合ったことがないタイプだった。

それまでは現場も少ないのでその都度大工を見つけていた。何棟も続けて付き合うのは彼が最初だった。大手の現場をこなすことで新しい建材とか工法をよく知っていた。それまでの大工は古いやり方から抜けられないところがあった。File-043

見たこともない金物とか工具を見せられて驚いた。彼自身も新しいもの好きで合理的なところは先輩大工と合わなかった。当時は新しい大工と思ったが手抜き工事と紙一重の危険な仕事でもあった。スピードアップするためには大手は手段を選ばないのがよくわかった。

スピードアップはコストダウンに繋がり4,5年彼と組んで建て続けた。2,3年くらいしてから現場のクレームが増え大工のレベルに問題があった。貸家のようなものでは良いが一戸建てでは通用しない。

仕上げの丁寧さとかは大工の腕による。キッチリと仕上たものは後で狂わない。スピード第一の大工は端折ったり手抜きをする。床が波打ち壁が歪む….素人にもわかる程ひどかった。安いし早いので続けたが現場管理の甘さとしか言いようがない。

そのことが反面教師になって丁寧でがっちりした仕事を目指すようになった。アフターを通して勉強したなどと今では赤面モノだ。その後はオトーサンとかTのような大工に仕事は流れるようになる。File-051

彼は今でも大手の仕事を中心に頑張っている。逆にオトーサンとかTのような大工の方が仕事が減って苦労している。悪貨は良貨を駆遂する例かも知れない。時代の流れに乗っているとも言えるが。

大手の現場のやり方を彼から学んで対抗する難しさがわかった。徹底的に大手のやらない分野に集中しないと生き残れないと思った。専用金物や建材でスピードアップを図り大工にもやり方を迫る。早く言えば手抜き工事に近い。

食っていく為に何でも有りは仕事としては面白くない。やはり施主に喜んで貰って感謝されるような家つくりが王道だ。目新しさに目が眩んで一時は喜ばれても家は長く使うものだ。いつかは信用されなくなる仕事はできない。

彼との付き合いはそれを教えてもらったのが一番大きい。おかげで国産材を使った真壁の家つくりができるようになった。


職人の世界—–大工その2

付き合った中で一番年配の大工だったオトーサンさん。70代だったが動きは機敏で目つきも鋭くいかにも昔の棟梁らしかった。
建てた家を見て気に入った私が大工の名前を聞いて会いに行った。当社からは少し遠く片道一時間近くかかる。こちらからお願いした手前少々高くなっても止むを得ないと思っていた。

当時はプレカットが主流になり始めて大工たちもやりたがった。私的には違うと思ったので大工を探さなければと思っていた。通りかかった家を見てピンときて見せてもらった。
自分がやりたいと思う家だった。曲がりも使って漆喰で仕上げてあった。デザイン的には見るべきものはなかったが構造は気に入った。

最初の現場は私の自宅の近所だった。若くて何でも自分でやりたがる施主だった。小さく外観も若者向けだったが内部の古臭さとギャップがあった。
棟梁は弟子たちからオヤジとかオトーサンと呼ばれていた。私たちは親しみを込めてオトーサンと呼んでいた。
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オトーサンは曲がりや大黒を使って古民家そのものを建てていた。曲がりは手斧削りで初めて見て少し感動した。
お医者さんの瓦の載った古民家風を予定していたので続けてやってもらうことになった。オトーサンとはこの二棟しか付き合いがない。
新しい家つくりを考えたので別の大工と付き合ったからだ。いずれ古民家風をやるときはお願いするつもりだった。

さすがに伊達に歳は食っていない。古民家風ではない現役の田舎の家つくりの知識は豊富だった。覚え始めた木の種類やきこりから聞いた知識があったので急激に木に詳しくなった。
曲がりの作り方や倉庫を見せてもらってどう言うのを在庫するか教えてもらった。体は動かさない知識だけの弟子入りみたいなものだった。

オトーサンの周辺はかなりの過疎地になる。農業以外さしたる産業もなく人口が減る一方だった。
大工たちも出稼ぎも多く地元の仕事が減ってオトーサンも苦慮していた。弟子たちがいるので何とか地元で仕事をと言う時期だった。
農家の二、三男が口減らしに小学生から住み込み弟子入すると言う昔の習慣がそのままだった。だから弟子たちには文字通りオトーサンであって実の親以上だったろう。
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オトーサンも弟子は子供だから仕事探しに引退する暇はなかった。
そこに飛んで火にいる何とやらで突然仕事が舞い込んできた。本気で当社と組んで仕事をと思っていただろう。
色々あって当社も何社か大工を抱えようとしていた頃だった。たまたまオトーサンにふさわしい仕事がなかったのもあって2,3年縁が切れた。

特産のニンニクをぶら下げて事務所へ遊びに来たこともあった。古民家風でない家つくりに夢中になって忘れかけていた。
オトーサンは現場仕事をしない棟梁でペースも遅かった。腕は問題ないが海千山千のオトーサンは駆け引きが上手で安くはなかった。あれから10年以上になるが今に至るまで仕事がオトーサンのところへ行くことはなかった。

最初に建てた現場を大学生だった息子が遊びに行って見ている。何も言わずじっと大工たちを見ていた息子はそのとき何を考えていたか。のちに大工になりたいと言ったときそのことを思い出した。
今年に入って息子が現場で働いているオトーサンを見たと言う。80代になっているはずだから弟子たちのために今でも引退でしないで頑張っていると言うことだ。私の息子を見て目を細めて思い出す風だったと言う。


職人の世界—–大工その1

一緒の時間が一番長い大工。出来不出来を左右する一番の職人。付き合った数でも喧嘩をする程深く付き合うのも全て私にはキングオブ”職人”だ。
独立前から何人も知っていたし性格まですっかりお見通しの仲になる。年齢的にも近いのが多かった。

中でもナンバーワンと言えるのがTで歳は二つ下……だと思う。大工は私的なことは触れたがらない。作業場と電話番号が全てであとは良く知らない。
そのころ付き合いのあった家具屋から紹介された。携帯の日付を見ると18年2月。腕が良くて仕事が早いとの触れ込みだった。

最初の現場は自分の山から出した唐松で作るログハウスのような家だった。唐松は狂いやすくヤニも多くて現しに使うのは少ない。杉などに比べ硬くて加工しにくい。
今だったら止めた方が良いとか手間がかかるとか揉めたかもしれない。最初というのもあって黙ってやることになった。100_3473

今から思えば無謀で全て唐松の6寸角を使った。柱も胴差しも桁も唐松だけだった。通し柱も多く建て方の時は雨で苦労した記憶がある。
それまで付き合ったどの大工よりもスピードがありどんな難しい注文でもできないとは言わない。こちらが無理かもと躊躇するようなのも黙って作る。

その家は6寸角を縦横使って材の寸法が共通化してあった。その後の規格型の家つくりの最初の家だった。普及し始めたプレカットに対抗して何か新しいモノを考えていた時期だった。
大工も付き合いがない新しいのをと思っていた。どうしても馴れ合いがあるので妥協してしまうからだ。

後にその時の仕事で苦労したと漏らしたことがあった。私も新しい企画で大いに乗っていた頃だった。
完成見学会は来場者が多くて今に至るまで数を更新できない。デザイン的にも斬新で大きく見栄えがしたと思う。あふれた来場車にパトカーが出動する騒ぎだった。CIMG1924

何よりスピードと飲み込みの早さに私もゾッコンで次々と建てた。私の家つくりが一番進歩した時期と重なる。
古民家風から規格型のローコストまで試せることは何でもやった。そして当社のイメージが固まった時期でもあった。

彼は木にはこだわるので丸太買いが増えてちょうど良い具合だった。倉庫も借りて在庫も増えて次々とこだわりの家を建てていった。
木にこだわる余り大工の技術に無理がかかるような設計もした。そのことで喧嘩をしたが怒るだけの私より彼の方が大人の対応だった気がする。

家大工で修業し親方は宮大工もしたことがあると言う。兄弟子は宮大工になり彼も手伝いに行ったらしい。
息子が帰ってきてから宮大工との違いがわかるようになる。やはり家大工であることが後で理解できるようになる。一番の良さは何と言っても頭の良さと早さだったように思う。墨付けから刻み、加工すべて要領が良く間違わない。
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それ以前の大工たちが一月かかったことを二週間ほどでやってしまう。自分だけでなく使っている大工にもスピードを要求する。その早さは今まで見たことがなかった。
欠点は彼が払う手間賃が高いのに大工が辞める事だった。追いていけるのしか残らないからだ。

現場では労災関係のきまりを守らないところがあって何度か監督署に怒られた。そしてついにヘルメットも被らず落ちて救急車で運ばれる騒ぎになった。
昔気質の大工に多いことで親方が守らないと弟子も守らない。コッテリと監督署に絞られた私はその後は現場管理に注意をするようになった。

私の成長期とも重なり彼と出会ったことは大きな変化だった。家つくりの基本が固まり設計にも自信が出てきた。
息子が帰って来てから少し彼とは縁が切れている。自分のところの作業場が出来てトラックも用意したのでよけいだった。60歳はとうに越した彼もペースが大分落ちたと思う。お互い歳に合わせた仕事をしてできるだけ長く頑張りたいと思っている。


職人の世界—–きこり

”きこり”を辞典で引くと山で木を伐採する人とある。もう20年以上も付き合いのある伐採職人であるきこり。
農業と兼業が多かったのは昔の話で今は会社に所属するサラリーマンだ。サラリーマンになっても危険なことと山の中にいて仕事をするのは同じだ。伐採だけでなく夏は下草刈りや植林もやる。

最初に職人たちに出会ったのは森林組合に依頼した伐採の時だった。親とも言える恩のある方が組合長で国産材を使うように言われたのが最初だ。
材木として使う以外に木との縁がなかった。山から丸太を出して製材して家を建てるのがマニアの世界だと思っていた頃だ。

施主もまた森林組合員で山持ちなので自分の山から出すことになった。伐採はおろか製材所もよく知らない。おんぶに抱っこで伐採、製材全てお任せでスタートした。見るもの聞くもの知らないことばかりで絵に描いたように大失敗に終わった。DSC_2869

山から出す量が見当がつかず使用量の3倍くらい出た。余りを製材所に売ったが良いものだけを安く抜き取られる。
売れそうもない丸太で製材し未乾燥で狂ってトラブルになり高い授業料を払うことになった。この経験が勉強不足を痛感しのめり込むきっかけになった。

良い丸太とは何か、木を見分けるには、そもそも種類は…..。組合は販売するのが主でこだわりは特にない。仕方がないので伐採現場を見てきこりから直接聞いて勉強した。あちこちの現場へ出没し危ないからと迷惑がられながら覚えていった。

いつも同じメンバーとしか話さない職人たちは熱心に来る私を歓迎した。木の種類から見分け方、年数や生えている山の見分け方….全て覚えた。
同時に職人と仲が良くなりその後の山買いの情報網となった。山の中でも携帯は通じるのできこりから伐っている丸太の情報が直に来る。CIMG3465

それを聞いて丸太を見て購入する。きこりの見立ては確かで良し悪しは外れたことはなかった。
ブローカーや組合の市では良い丸太と悪いのを抱き合わせで売る。そうしないと残るからだが買う方は良い丸太しか興味がない。下に隠して騙し合いみたいなものだ。

丸太は立っているより伐ってからが判断しやすい。それでも製材してからでも当たり外れがある。
山買いだとすべて自分の責任になるから博打に近い。伐採の現場から一部の良いものだけを自分のトラックで運び出して買えば安全に安くなる。

きこりは出た丸太をブローカーや組合に売る。良いものも一緒に買い叩かれるので少しでも高く売りたい。利害が一致して握手になるのだが欲しくない時でも買わざるを得なくなる。大した金額でないと思っても積もれば大きい。山田伐採7

膨大な在庫はこうやって増えて資金繰りにも苦労する。良い材木を集めることで良い大工たちも集まる。腕の良い大工がきこりの次に増えていくことになる。大工たちにも売ったり本業が疎かになってしまう。10年前だったら私のような”木馬鹿”は珍しくなかった。

きこりに限らず職人は信心深いのが多い。きこりも最初に伐った切り株に水、塩、煮干しを並べ酒を撒く。ベテランが減ったところはあまりやらなくなった。労災事故が多い危険な仕事なので山の神を敬うのが多い。

普及したプレカットや高齢化の影響できこりや製材所は次々と廃業した。携帯に残ったきこりの名前も一つ一つ消えていく。
今後も山買いはあるのだが減ることは仕方がない。買っても置く場所やトラックの維持費で苦しくなる。生き残った製材所や組合からこれからも買い続けるつもりではいる。


職人の世界—–大工道具

私の同年代は手に職を持つと言うことで大工になるのが多かった。親世代にも多く大工はありふれた職業だった。あれから40年ほどして大工がこれほど減るとは思いもしなかった。
まして自分の息子が大工になりたいと言った時は驚いた。設計という仕事をしながら大工と言う職業で生計を立てることが現実問題として考えられなかった。

プレカット時代で大工も昔風の職人から現場で働く労働者となってしまった。腕一本で食っていくとかは無縁の世界になった。決められた仕事をきっちりやるだけで出来がどうのとかはなくなった。
宮大工の修業を志した息子はそう言う時代の流れから外れているように思った。本人の意思が固くそれから7年自分で見つけた親方のところに行くことになった。CIMG1033

宮大工は家大工(やだいく)と違って技術と言う面で厳しく古いものを残している。大工道具が全く違って種類も多い。最初は鑿、鉋の刃の研ぎから入る。
仕事から帰ってから毎日研ぐ練習を3年はやる。そこができなければ道具の使い方を教えてもらえない。もちろん電動工具も使うのでこちらはすぐ覚える。

細かい加工は兄弟子たちの仕事で刃が研げない者はやらせてもらえない。できるようになる頃には必要な道具を揃えなくてならない。
鑿一つとっても用途、刃幅、長さで10本は用意する。凝るようになれば30本ケース入りの何十万もするのを持っている。CIMG0986

鑿だけでなく鉋や玄能、鋸…..キリなくある。それらを全て自費で揃えるので若い者は道具代しか稼げないと言われる。最近は何でも電動工具の時代なのでそちらの購入費もものすごい。
現場では電動の出番の方が圧倒的に多い。手で加工する部分は少ないのだが道具は持っていないとできない。

電動でできる部分はすぐ出来ても手加工の部分はまず道具の手入れから始まる。切れる刃でないと細かい加工は出来ないからだ。
仕事の前に刃研ぎになりある程度使えばまた研ぐ。こうやって道具は砥石で削られ短くなっていく。焼きが入った部分のギリギリまで使って短くなったモノも大事に使う。CIMG0984

廃業した大工から道具をもらうことがある。使わない道具はすぐ錆びる。埃にまみれて大工以外にはただのゴミにすぎない。
良い道具はそう言う状態からでも研ぐとまた使えるようになる。買った時の封がしてある鉋台は刃を入れてまた使うことができる。

どこかで良い道具を見つけたり売り出しの時とかに買っておく。刃を入れ使いやすいように削ったり叩いたりする。手に馴染むまで時間がかかる。
古い大工道具には大工特有の癖がついていて貰っても一度バラして研いだり作り直す。言わば使い込んだ道具はその大工の魂が宿っている。CIMG0982

一般に職人は自分の仕事を作品と思っているのは少ない。彼らには自分が働いた現場と言う意識しかない。金を貰って働くのはプロであり職人なのだができたモノは施主のモノであり自分の作品とは思っていない。ボランティアであれば作品と言うこともあるがプロである以上金を貰えば仕事にすぎない。

自分の腕には自信を持っているのは一定の数いるものだ。他の大工にできないことをできるのは腕の差としか言いようがない。
そしてその腕を磨くことに情熱を燃やすのもいる。そういう熱心な大工は道具にもこだわる。CIMG0951

大工道具の世界にも名の通った職人がいる。腕の達者な大工たちに支持される道具は同じくらい腕の良い職人が作っている。だから銘の入った鋸や鉋を持つことは腕の良い大工の誇りなのだ。
廃業に際して道具を譲られる大工は技術もまた受け継ぐ。使いこなせないとわかっている者に道具を譲ることはない。

大工道具の値段は想像以上の金額になるものだ。鑿一本2万から良いもので10万くらい。玄能の頭が有名なもので6万、無名で1万くらいか。砥石は良い道具にはつきもので10万するものもある。鑿、鋸、鉋、砥石などは種類が多いので全部揃えるとすごい金額になる。CIMG0954

電動工具でも消耗の激しいものと長く持つものがある。電動ドリルと丸鋸は何年も保たない。電ドルで5,6万丸鋸で3万くらいか。手押し鉋とか電気ドリルなど充電でないタイプは比較的保つ。
充電タイプが主流になり保ちが悪く値段も高くなった。他に道具が要らないのでプレカット大工は何台も用意する。